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解説 |
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1、武蔵の比企氏 - - - 武蔵国の比企郡より起こり、藤原秀郷の後にして、能貴を祖とす、と云う。
又、一説には 小碓尊(日本武尊)二十余世の裔 健部人上大國、延暦の頃、武蔵介に任じられる。その裔なりと云う。
比企系図には「藤原姓にて、家紋は 花菱、剣鳩酸草」と。
「比企能員は 藤四郎と称し、比企、入間、高麗の三郡を領し、故有りて建仁三年九月二日、遠江守時政(北条)に誅せらる」と。
東鑑によるに「能員は 四郎とも藤四郎とも称す、永暦の初め、頼朝 配流の時、能員の姨母 比企尼、その夫 掃部允と同じく忠節を存し
治承四年まで二十年の間、比企郡の田地を請所として 世途を助けしかば、頼朝、志を得て後、その覚え大方ならず、しかのみならず、
能員 常に眤近して 勤労久しかりければ、建久元年 上洛に従して 右衛門尉に任じ、後、判官となる。頼朝 薨じて後、子 頼家、
将軍宣下あり。能員の娘、若狭局 これに仕えて 男女の子を産めり。さらば能員 外戚として権勢益々盛んなり。(新編風土記) 」と。
能員の後裔 - - - 一説に「能員は 建仁三年、頼家 病に臨みし時、家督の事により、北條時政の一族を
除かんとして 事 顕われ、遂に殺され、一族も あまた同じく滅亡せり」と云う。
尚、新編風土記に「中山村旧家者 比企道作、今、医を業とす。鎌倉将軍の頃、比企判官と聞えしより、その支流 一旦御当家へ仕え奉りしが、
故有りて除邑せられ、永く当所の民間に下れりと云う。道作は その子孫なり。先祖能員より連綿せる系図を蔵す」と。
又、比企郡下井草村の比企氏も 判官能員の庶流なりと云う。家に蔵する古き過去帳に「浄安居士 寬永十五年九月没す。俗名 藤四郎」とあり。
尚、比企郡の郡名を以って 比企を称する者もあらん。
2、相模の比企氏 - - - 鎌倉に比企谷あり、能員の邸宅のありし地にして、比企尼(頼朝の乳母) 住めり。
又、この谷名を以って 比企を称する者も あらん。
3、源姓 - - - - - - 江戸幕臣にして、家紋、丸に三星、五三桐。 寬政系譜に「喜左衛門勝信(佐右衛門)―伊大夫勝正」とあり。
4、他
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