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大 須 賀(オオスガ) |
解説 |
下総、安芸などにこの地名あり。 徳島県美馬郡貞光町に大須賀(オオズカ)の地名あり。 |
1、桓武平氏千葉氏族 − − 下総国香取郡大須賀村より起こる。千葉氏の族にして、
尊卑分脈に「千葉常兼(下総介、太郎)−常重(同)−常胤−胤信(大須賀)」と。
東鑑 治承四年九月十七日條に「千葉介常胤、子息 太郎胤正、云々、四郎胤信
(大須賀)などを具して下総国府に参会す」とあり。家紋
七曜。
佐倉風土記に「大須賀加賀守なる者ここに居る。城因寺記に云う。大永中、大須賀
和泉守英胤、不動及び十二天像を安ずと。その子 紀胤、天正中 亡ぶ」と(地理志料)。
2、磐城の大須賀氏 − −胤信 鎌倉幕府に仕え功あり。陸奥、及び甲斐に領土を賜う。
奥相秘鑑に「胤信、文治の軍賞に陸奥国岩崎郡を賜り、同郡松岡に住す。承久二年
五月、八十四歳にて卒し、その子 大須賀左衛門尉朝胤より代々 相続」とあり。
3、甲斐の大須賀氏 − −胤信 建保元年、和田の乱に功あり、甲州
井上庄を賜う。十五代の孫に
高胤、高範あり。
4、三河の大須賀氏 − − 大須賀四郎胤信の二男
左衛門尉胤秀 嫡男 左衛門尉重信の後胤なりと
云う、幡豆郡掃部野場村に住す。五郎左衛門尉康高に至り、家泰に仕え横須賀城を
賜い、三万石を領し、その子 忠政、六万石となりしも、子 忠次、榊原氏を継ぎて
家亡ぶ。
5、越後の大須賀氏 − − 大須賀民部なる者
長尾為景に仕えて、弥彦三千貫を領せしも、
後、滅ぼさる。
頸城郡笠島城(笠島村)の城主に大須賀吉岡あり。
6、下野の大須賀氏 − −胤信末子 十郎左衛門尉嗣胤の後なり。君島
参照。
7、他
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