渡  辺(ワタナベ)・渡  部(ワタベ・ワタナベ)

解説

渡船の事を職とせし渡部(ワタリベ)さんの子孫が広く、

水上の運輸航行の実権をにぎった。このワタリベが住む地域

に地名が付き、その地名を付けしを渡辺と云う。

国土基本地図に1ヶ所、栃木県黒磯市に渡辺の地名あり。

渡部の地名は、国土基本地図に3ヶ所あり。

 

福島県いわき市、新潟県西蒲原郡分水町の渡部は、ワタベと読み、

秋田県南秋田郡若美町の渡部はワタナベと読む。

分派氏族

 

1,嵯峨源氏説 摂津国西成郡の渡邊より起こる。尊卑分脈に

       「源 敦、綱を養って子と為す」と。

  綱−久−安−傳−満−省−授−繁−兼−経−企−俊忠−忠房−満綱(将軍義満に仕う)−元綱−頼綱−安綱−道綱┐
    ┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
    └範綱−氏綱−高綱−守綱
(槍半蔵)−重綱−吉綱−方綱−基綱−登綱−信綱−伊綱=豪綱−春綱┐
   ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
   └=則綱−潔綱−章綱−ェ綱、
和泉伯太一万四千石 家紋 丸に三星一文字、日の丸三本骨の三扇 明治 子爵

       又、守綱(槍半蔵)の弟に政綱(新左衛門・半十郎)あり。

  尚、渡辺系図には「渡部綱(五位内舎人、天下第一の弓上手)−久、云々」とあり、辺を部とあり。

   即ち、渡辺、渡部を混用す。又、系図により人名、代数が異なる部分あり。

2,秀郷流藤原姓荒木氏族 摂津の名族にして、荒木系図に

       「荒木大蔵丞高村−美作守重元(摂津国花隈城主)−志摩守元清−渡邊

       小四郎(渡邊氏養子、信長の為生害)」とあり。

3,赤松氏族- - 赤松則村十二代孫 則国の子 与七郎則景、摂津渡辺に住して、

       その地名を家号とすと云う。家紋、月、丁子車、則景四代孫、

       立軒則智は、眼科医にして、延享以来幕臣となる。

4,河内和泉の渡辺氏− 楠木氏配下の将に見え、又、後世、伯太藩主に渡邊氏あり。

       又、堺の明吏に渡邊直(良雄)あり。

5,賀茂姓− 上賀茂社の社家にあり、賀茂縣主姓なり。又、下鴨社氏人にも

       ありて、鴨縣主姓なり。内上賀茂社家 渡邊登顕の男 豪顕は、俳人

       にして、名高く、牛山と号す。

6,山城の渡辺氏− ェ政系譜に

       「田中住人 渡邊出雲守(松永久秀家臣)−左馬助重(季斎・家康に

       仕う)−吉左衛門多」と見え、家紋、三本骨扇に日の丸、三本骨扇に三星」と。

7,伊賀伊勢の渡辺氏− 桑名郡の名族にありて、永禄の頃、渡部掃部介は 東方邑城に

       拠る。

       又、北畠家臣に「渡邊筑後守信−甚右衛門朝−太郎右衛門秀、

       家紋 丸に三星、蔦」と云うものあり。

       又、伊賀上野広禅寺は、元和元年 渡邊了の草創なり。了は、勘兵衛と

       称し、藤堂氏に仕官して、大阪の役に戦功あり。

       又、武鑑、藤堂藩家老にこの氏あり。

       又、関長門守侍帳に「百五十石 渡邊松右衛門」とあり。

       又、津藩 渡邊八左衛門重通(高之助)は、名臣として聞こえ、

       又、儒者に渡邊碩也あり。

8,近江の渡辺氏− ェ政系譜に

       「村瀬伊賀守吉正−重次−吉成(織田信孝に仕う)−吉兵衛定(正吉、渡辺に改め

       秀忠に仕う。)」と。家紋、七文裏銭。

9,尾張の渡辺氏 渡辺孫左衛門の男 久重は、信長に仕え、その男に 久勝あり、

       子孫幕府に仕う。家紋 丸に三星一文字、三本骨三扇、洲浜。

       又、尾張家重臣にあり。三河国 浦部渡辺家の嫡流なり。一万四千石、

       代々半蔵と称す。第1項参照。

       明治に至り、渡辺半蔵は、男爵を賜う。系図はェ政系譜に

       守綱(槍半蔵)−重綱−治綱(吉綱の兄)−宣綱−定綱−直綱−綱保−綱通、

10,浦辺家− 三河国額田郡の名族にして、第一項 俊忠、忠房の裔なり。

       「渡辺綱の後裔 左衛門尉企の子 箕田兵衛尉俊忠の六世孫 安綱の子

       道綱、当国に来たり浦辺に住して七郷の領主たり。その子 国綱−行綱

       −春綱」と云い、国綱の弟「範綱(浦辺に住す)−氏綱−高綱−守綱

       −重綱」なりと。浦辺七郷には渡部党多し。内 定国村には、渡部忠右

       衛門居住せり。

11,渡辺侯 上記 重綱の四男 吉綱の後にして、系図は第1項参照。

12,和田家− 三河国八名郡の豪族にして、郡内和田城は、二葉松に、「古代

       和田民部住す、後、渡辺久左衛門、永禄年中その息図書助浄元亀元年卒、

       その子 山城守茂」とあり。家紋、三蛇の目、三文裏銭、蛇目、茗荷。

13,三河の渡辺氏− ェ政系譜に

       「綱十九代源太左衛門範綱の長男 次郎左衛門治綱−正綱−利綱・弟 半兵衛真綱(

       織部、家康に仕え五百石)−半兵衛勝綱(千石)」と。家紋、丸に三星、蔦、三蛇目。

       又、この族に渡辺定静 (登、伯登、崋山と号す)あり、三河国田原藩の

       家老にして、蘭学を修め、異国船打払い令に反対し、鎖国政策を批判、

       蛮社の獄で自殺。

14,摂津の渡辺氏− 第1項 綱の後裔 備(赤田七郎)の男 昭は、延元二年八月、

       摂津国難波地頭職たりき。その後裔は、ェ政系譜に

       「近−忠−長−下野守某(源三郎、室町幕府に仕え、摂津安倉城に住し、

       安倉氏と云う)−主殿助某−清(義昭滅後、信長に仕え安倉領主)−定

       −勝(三百石)、家紋 三輪貫、波の丸八頭」と。

       又、渡辺重(元亀元年卒)の娘は秀吉に仕えて二位の局と称す。その弟

       筑後守 勝(三千石)−筑後守 正−真、子孫幕臣、

       家紋 蔦葉、三星一文字なり。

15,駿河の渡辺氏− 遠藤系図に

       「授(兵衛尉)−繁(右衛門尉・豊前守)−嗣(源左衛門)−勝(左衛

       門尉)−生」と。家紋、花菱。

16,囚獄佐家 − − 甲州の名族にして、ェ政系譜に

       「源次大夫安−左馬允至−甲斐四郎好−源五郎於−源太郎譬−源八高−源太郎宗

       −源三実−源五郎則−源二郎続−忠−光−恒−知−縄−囚獄佑守−安、弟 囚獄長、

       家紋、三輪抜、丸に三蛇目、三本扇の内三蛇目」とあり。

       甲斐国志などに「嵯峨源氏 渡辺綱の後裔 十六世 知、武田家に仕え功あり、その男

       縄−守(囚獄佐)−安(囚獄佐)−長、家紋、三星一文字」とあり。

17,甲斐の渡辺氏 − − 上記の他、武田家臣に渡辺武右衛門定正、その男 弥兵衛定勝あり、

       家紋、丸に三星一文字、丸に柏。

       又、九一色衆に渡辺治郎左衛門、渡辺五郎兵衛、渡辺次郎兵衛、渡辺但馬などあり。

       又、誠忠旧家録に「渡辺源二 綱 末流 渡辺三左衛門綱信後胤、天正以後處士として

       村事を掌る。青島庄高田渡辺喜内の家。御岳衆、渡辺三左衛門綱信後胤、同 渡辺

       平次右衛門美清」とあり。

18,信濃の渡辺氏 − − 高島藩士に渡辺国武あり、明治時代 国事に功多く、子爵を賜う。その子

        千冬。又、渡辺千秋も功多く、男爵を賜う、その男 千春なり。

19,武蔵の渡辺氏 − − 新編風土記 荏原郡馬込村渡辺氏條に「先祖を渡辺対馬守正久と云う、

       その年代を伝えず。この人 後に改めて四郎左衛門と称せり。この他 対馬守の事跡は

       更に伝えずと云う。思うに正久は、管領家などの旧臣にして、世を農耕の間に隠れ

       たる人か。かかる故を以って、その事実を伝えざるならん」とあり。

       又、御府内備考に「茶屋町 渡辺氏、山屋と云う。浅草寺志に云う『並木町草分の

       時より、先祖 平三郎居宅縄張にて取り、代々 半三郎と称す。今に至り十代、酒

       商売を業とす。伝法院公英僧正の時、今より六代以前、半三郎 隅田川の水をくみ

       酒を造り参らせたる処、僧正 満悦ありて、隅田川諸白と云う名を授けらる。それより

       世上に売り広めしとなり。今は、摂津国伊丹より廻る酒を砂越にして、その上

       調合せるなり。紅葉山御用は、貞享年中よりこれを勤む。

       又、水戸殿御用をも今より七八十年以来達するなり』と。山屋半三郎は、渡辺氏にて

       源氏なり。その先、多田満仲に仕えたりと伝う。今の宅地は、浅草寺よりかえ地に

       与えし所なるよし」とあり。

       又、新編風土記 埼玉郡向古河村 渡辺氏條に「相伝う、祖先は頼政に仕えし渡辺競に

       して、頼政 宇治の戦いに討ち死にの時、彼の首級を笈の内に入れ、猪隼太と共に

       当国に来り、今の古河城地、街道なりしその所の観音堂の下に埋めて、当所に住し、

       猪隼太は、今の古城下の方に住せしが、その子孫 近き頃 退転して、この渡辺の子孫

       のみ 今も存す。中古は渡辺主水介と云い、古河の足利晴氏に仕えし頃、同人より

       与えし文書一通を蔵す」とあり。

       又、成田左馬助泰之の家臣に渡辺荘兵衛重綱あり、その男 三五郎重次は 家康に仕う。

       家紋、蛇目。

       又、葛飾郡西大輪村の人 渡辺邦蔵邦伸は、神道無念流の剣士として名あり、渡辺越後

       朝綱(北條家臣)の子孫にして、父を義栄と云う。

       又、風土記稿、葛飾郡上川崎村 渡辺條に「世々 名主を勤む。所蔵の系図に『祖先は

       一色公深の七代の孫 一色宮内大輔直朝、天文中、足利晴氏、及び義氏 二代の間

       随従し、後に、幸手庄に蟄居し、慶長二年十一月十四日卒す。法諡 大虚院月庵蘆雪と

       号す。村内の正蓮寺の開基たり。その子 義直は、義氏逝去の後、家康に召し出さる。

       一色右京某の祖なり。弟 政義は 当村に住し 渡辺を以って氏とし、元和二年三月一日

       死す』」とあり。

20,常陸の渡辺氏− 新編国志に「渡辺。嵯峨源氏にて、摂津国渡辺より出でたり

       (尊卑分脈)。今所々にあり」と。

       江戸時代、守山松平藩附人に渡辺氏あり。

21、下総の渡辺氏− −岡田郡古間木に渡辺周防守元綱あり、常総軍記に「多賀谷高経に攻められし事

       あり」と。

       又、当国長生郡長南町の人 渡辺辰五郎は 明治十四年 和洋裁縫伝習所(東京家政

       大学) を創立す。

22,磐城の渡辺氏 − − 当国菊多郡(石城郡)に渡辺村あり、この地より起りしもあらん。

       田村大膳大夫清顕公の家中に渡辺雲龍斎ありて、正楽館に拠る。

23,耶麻の渡辺 渡部氏 − − 新編会津風土記 耶麻郡下高額村條に「館跡、至徳の頃、渡辺左京進

       長勝、本郡十二ヶ村を領し、館をここに築き居住せし」と載せ、

       又、都澤村條に「館跡、渡辺帯刀入道居りし」と云い。

       又、小布瀬原村條に「館跡、相伝う、元亀 天正の頃、渡部忠兵衛直忠 住す」とあり。

       又、渋谷村條に「温泉神社神職 渡部衛門、先祖は会津郡楢原組成岡村の領主

       渡部越中陸明と云う者の十世の孫なり。父は嘉右衛門陸縁と云い、衛門、明和中

       当社の神職なりき」と。

24,河沼の渡部 渡辺氏 − − 新編風土記に「古坂下村館は、渡部中務と云う者住し、天正の初め

       荒井丹波某住し、同十年の頃は伊藤勘解由某住せし」とあり。

       又、「御稷神社神職 渡部丹波。ェ文中、河内経長と云う者 当社の神職となり、

       相続いて今に至る。経長は、今の丹波政晴四代の祖なり」とあり。

       又、「窪倉村館跡は、渡部監物某 住せし」と云い、

       「茅本村館跡は、天正の頃、渡辺中務某 住せり」と云う。

25,大沼の渡辺・渡部氏 − − 新編風土記に「高田村 伊佐須美神社。神職 渡辺伊予、その先、

       渡辺四郎光房は 内舎人 従六位下 渡辺綱の八世の裔にて 鳥羽院の北面の武士なり。 

       光房の次男 大和惟治、当国に来り、その孫 長門頼綱、建暦の頃、この社の禰宜と

       なる。六世の孫を近江長と云う、始め五郎と 称す。この時、神職五人の内に入る。

       本宮八幡御正体に渡辺五郎源長とあるは、この近江の事なり。近江の八世の孫 大蔵

       大輔則綱、始めて長官に任じ 則綱九世の孫を渡辺伊予惟一則と云う、今の長官なり。  

       文明十八年頃、神職渡辺大和某の二子、万寿丸、夙慧にて、葦名盛高に賞され、

       後には、渡辺主殿光綱と号し、河沼郡台村にて三十貫文の地を領せり。当社 昔は

       神主 宮司 検校より以下 三十二人の神職ありしも、徳川時代は、長官の外、十三人

       なり」とあり。

       又、「大登村館跡は、天正中まで、山内氏の臣 渡辺長門綱孝と云うもの住す。この

       村の名主 十郎右衛門と云う者 彼の子孫なりとて、今 館跡に住す」とあり。

       又、「旧家 十郎右衛門。祖先は渡部長門綱孝とて、代々山内の重臣にして、大登、

       桑原、河井の三村を領す。伊達政宗 会津に乱入し大波玄蕃をして山内氏勝を攻める時

       綱孝、左靮に拠って能く防ぎ、大波 厳しく攻めれども破ること能わず。氏勝 漂泊の

       後、綱孝 仕官を求めず、家に終わる。綱孝の嫡孫 十郎左衛門綱泰と云う者、村長と

       なり、九代相続いで今に至りし」とあり。

       又、「河口村熊野宮 神職 渡部丹波。何の頃にか大和某と云う者、初めて神職となり

       四世を経て今の丹波重政に至る」とあり。

26,会津の渡辺氏− −上荒久田村館跡は、渡辺源左衛門 居住せりと云い、中荒井村

       館跡は、長沼常則と云う者築き、慶長中、渡辺左京助某住せりと云い

       伝う。而して中荒井「旧家 源吉は、この村の名主なり、渡辺左京助の

       弟 源五郎某と云う者の八世の孫にて、世々この村に住せり。左京助は、

       蒲生氏に仕う」と。

       又、田島の熊野宮「神職 渡辺但馬、昔千一と云う巫女、神職を司り相

       続いて九世、万一に至るまで、巫女にて職を勤む。万一はェ文中の人

       なり。万一の子を宗忠と云う。今の宗興は、宗忠の五世の孫なり」と。

       又、宮下村八幡宮「神職渡辺出羽、ェ文中、勝久安 神職となってより、

       今の久明まで五世なり」と。

       又、界村鹿島神社「神職渡辺信濃、延宝中、権大夫某と云う者、当社の

       神職となりき。今の信濃義興は、六世の孫なり」と。

27,岩代の渡部氏 − − 新編会津風土記に「安積郡福良村磐埼神社 神職 渡部出羽。その先は、

       数馬教忠とて、出羽国 最上の者なりしが、万治 ェ文の頃、この地に来り、当社の

       神職となりき。今の出羽忠次は、五世の孫なり」とあり。

28,出羽の渡辺 渡部氏 − − 由利郡の名族に渡辺隼人あり、鳥海氏に属し、常満律師の滅後、

       栗山城に拠り、康安元年より進藤氏と争う。

       又、横手の儒者に渡辺恒あり、子観と号す。

       又、山本郡檜山の人 渡部斧松は新鎌を発明し、八郎潟の干拓、新田の開墾、水利

       などに尽す所多く 渡部神社として祭られる。

29,越後の渡辺 渡部氏 − − 第1項の綱 十世の孫 等、当国赤田保の地頭となり、子孫世襲す。

       又、蒲原郡に渡部村ありて、渡部城あり 古え 渡部左衛門尉国行と云う人住すと云う。

       又、「安川村旧家 渡部市郎右衛門。先祖は渡部左近将監盛遠とて、貞治五年、鎌倉

       よりここに来住せしと伝え、代々 肝煎を勤む」と。

       又、「粟瀬村 白山神社神職 渡辺宮内。先祖を三大夫と云う。何時の頃にか 当社の

       神職となる。その後、延宝中に筑後盛次と云う者あり、今の宮内の六世の祖なり」と。

       又、「五十島村若宮八幡宮神職 渡部奥頭。正徳の頃、渡部遠江吉信と云う者、当社の

       神職となりしと云う。今の奥頭吉政は、吉信の孫なり」と。

       又、「日出谷村羽黒神社神職 渡部信濃、正徳元年、渡部善大夫某、神職となり

       今の信濃広直の四世の祖なり」と。

       又、 頸城郡府中八幡の旧神職に渡辺氏ありて、「前の渡辺、奥の渡辺」の両家に

       分かれ、文書に「府中八幡神領百石の内 、五十石は、渡辺式部。五十石は、

       渡辺千之丞 配分たるべし」とあり。

30,越中の渡辺氏 − − 「渡辺筑後守等は、正平五年三月二十七日、越中国楡原保の地頭職」と。

       又、三州志に「砺波郡隠尾城は、庄下郷隠尾村領にありて 渡辺源左衛門 住せり」と。

31,加賀の渡辺氏− 前田藩用人に見え、藩の給帳に「千石(三ッ並星)渡辺余四郎、

       二百五十石(三ッ並星)渡辺守衛、二百石(三ッ並星)渡辺治部左衛門、

       五百三十石(丸の内に川)渡辺市之丞、百六十石(丸の内に三星)渡辺数馬、

       百五十石(丸の内に三星)渡辺善左衛門、百石(丸の内に三星)渡辺左太夫、

       七百石()渡辺小隼人、三百石(左三巴)渡辺要人、二百五十石(三つ星

       下一文字)渡辺三四郎、七十石(丸の内に三星)渡辺勘太郎、百石(丸の内

       に三星)渡辺友之進、百三十石(丸の内に扇)渡辺十兵衛、百二十石(丸の

       内に正の字)渡辺久米太郎、百五十石(三星)渡辺清太郎」とあり。

32,越前の渡部 渡辺氏 − − 秀康卿給帳に「五百石 渡部伝兵衛、五百石 渡部午兵衛、

       百五十石渡部安芸、百石 渡部菊左衛門」とあり。

       又、府中善行寺町の医師渡辺静庵の長男に渡辺洪基あり、岩倉具視らの遣欧使節に

       随行、後、東京府知事となり、東京帝国大学の初代総長、オーストラリア公使などを

       歴任す。

33,丹波の渡辺氏 − − 籾井家記に「波多野老中家 渡辺大学継俊」とあり。

       又、丹波志に「渡辺氏。子孫 下竹田村の内 前本戸。子孫 山田本家半右衛門、

       古の茶臼あり。分家 十兵衛、好右衛門、右衛門、勘六の五軒」とあり。

       又、篠山藩の儒者に渡辺世順あり、隴雲と号す。

34,因伯の渡辺氏− −「伊賀越乗掛合羽仇討」と云う歌舞伎芝居にもなった仇討ちの渡辺数馬あり。

35,出雲の渡辺 渡部氏 − − 尼子方の将に渡辺十郎三郎、渡辺源十郎あり、

       又、上月城に篭もる士に渡部内蔵助あり。

36,石見の渡辺氏 美濃郡津田村に渡辺城あり。石見志に「城主 渡辺源吾、

       渡辺杢助は、吉見領七日市の給人、同能登丞は、小笠原家臣」とあり。

       又、「木部村 渡辺城主 渡辺入道宗入、渡辺源吾の一族、弘治三年、

       門司合戦に石見の人 渡辺入道宗入 参加」とあり。

37,美作の渡辺 渡部氏 − − 横手城主 横山家臣に渡辺遠江守あり、子孫 勝田郡瓜生原に存す。

       又、新免家侍帳に「渡辺又左衛門、小の谷清水の構」とあり。

       又、英田郡沢田の渡辺氏は、播州安積将監の分家 天正八年、安積新兵衛 当地に

       来り、渡辺に改むとぞ。

       又、吉野郡小の谷村の庄屋に渡辺十右衛門あり。

       又、津山藩分限帳に「三百七十石 渡部勘解由、五十石 渡部宗兵衛、七十石 渡部

       与十郎、十人扶持 渡辺玄瑞、五十石 渡部順長、四十五俵 渡部嘉志馬、渡部恵助、

       五十石 渡部斧助、五石三人扶持 渡辺敬斎」等を載す。

38,安芸の渡辺 渡部氏 − − 芸藩通志 安芸郡條に「古壘二ヶ所、押込村にあり。二壘川を隔てて

       相対す。守者は知れず。或いは云う、一は野間氏家人、渡部貞吉の居所、一は陣城と

       呼ぶ、その別堡なりや」と。

       又、高田郡條に「清源山、長見山、並びに下小原村にあり。清源は門田(一説に門出)

       太郎左衛門、長見は、渡部太郎左衛門の居所」とあり。

       又、毛利元就記に渡辺太郎左衛門(天文)、

       安西軍策に渡辺左衛門、渡辺太郎左衛門尉通国、同神右衛門、同新右衛門、

       同小三郎、左衛門大夫などあり。

       又、芸藩通志 沼田郡條に「打越村渡部氏。先祖 渡部八郎五郎は、輝元、広島

       築城の時、地割役に加わる」とあり。

39,防長の渡辺氏 − − 毛利藩重臣にあり。当地方のこの氏も丸に三つ星、三つ星一文字を

       家紋とする者多し。

       幕末、渡辺定輔の弟 内蔵太暢は、勤王の士、贈 正四位。

40,紀伊の渡辺氏 − − 畠山家臣に渡辺与左衛門あり。

       又、雑賀根来衆徒に渡辺藤左衛門あり。

       又、紀伊家重臣にも存す。

41,阿波の渡辺 渡部氏 故城記、板西郡分に「渡部殿。小笠原、紋 三つ骨扇、

       雲地丸日」とあり。

       又、那賀郡海正八幡宮社家に渡辺氏あり。

42,讃岐の渡辺氏 − − 全讃史に「渡辺城は上圓座村にあり、渡辺市之丞、及び三之丞ここに居る。

       香西伊賀守の海賊奉行なり」とあり。

       又、「比地山城は、比地大村にあり、渡辺河内守ここに居る」と。

43,国前直姓 − − 豊前国上毛郡吹出浜(中津市)の八幡 古表(こひょう)神社の大宮司家なり。

       国前国造の後裔なりと云う。神紋は、花菱。

       幕末、渡辺越後守重堅の男 石見守重喬の弟に上野介重名あり、国学者として名高く、

       その男 重蔭、孫裔 上野介重春、重石丸など皆 名あり。殊に重春は、勤王の志深く、

       豊前志などの著書あり。

44,豊前の渡辺氏 宇佐郡の名族にありて、文明 大永の頃には、渡辺光、天文

       永禄の頃に渡辺鎮弘、その後、同 純政など見え、大友義統判書に渡辺

       石見守、同 加賀守あり。

       又、小倉の士に渡辺甚五左衛門あり。

45,筑後の渡辺 渡部氏 − − 堤家臣に渡辺三五内あり。

       又、五條家 天文二十年六月十九日文書に渡部能登守殿、文禄の北野座主坊文書に

       渡辺三郎右衛門尉包辰などあり。

       又、田中家臣知行割帳に「千石 渡辺喜兵衛、二百石 渡辺八左衛門」とあり。

46,肥前の渡辺氏 − − 綱も当国に下向すと云う。

       士系録に「波佐見村、彼杵村、千綿村等に所領あり」と。

       又、大村藩に存し、大村七騎の一と伝え、その裔、幕末に渡辺厳あり。その男 清は、

       幕末明治に功多く男爵を賜う。その嗣を環と云う。清の弟 昇も功多く 子爵を賜う。

47,肥後の渡辺氏 − − 早川系図に「清(松浦次郎、源為朝に仕え、保元元年七月、鳥羽白河殿に

       於いて戦死)−進(渡辺次郎、遺腹の子、肥後 阿蘇に来りて大宮司に仕え、旧称

       渡辺に復す)------秀村(渡辺近江守、進の四代の孫、建長五年云々)」とあり。

       又、大友義鎮(宗麟)の判書に渡辺能登守を載す。

48,日向の渡辺氏 − − 諸縣郡一宮大明神 天正の棟札に「鍛冶 渡邊刑部左衛門源秋」を

       載せ、又、当国の儒医に渡邊宗臨あり、正庵と号す、その男を栄と云う。

49,他


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