長 氏(名字) の 由 来
長は、長谷部を略した言い方で、後、単に長と称し、氏(名字)となる。
長谷部をハセベと読む理由など詳しくは、有料ページにあり。
長氏(名字)は、平安の昔から歴史に登場する名族です。(その先祖は物部氏『モノノフ(軍事を司る氏族)
・(いわゆるモノノベ氏)』、更なる先祖は神代の神饒速日命であり、天照大神と云い、まさに
神のみぞ知るところであります。)
源平盛衰記に「高倉宮に仕え奉れる侍に長谷部信連あり、長兵衛尉と称す」とあり。
東鑑、文治二年四月條に「右兵衛長谷部信連は、三條宮の侍也」とあり。
平家物語に「先年、所にありし時、大番衆の者共の留め兼ねたりし強盗六人に、唯一人追い懸かり、
二條堀川なる所にて、四人を切り伏せ、二人を生け捕って、その時成されたりし左衛門尉ぞかし。
あたら男の斬れんずる事の無慚さよと、惜しみ合えりければ、入道相国(清盛のこと)いかが思われ
けん。さらばな斬ぞとて、伯耆の日野へぞ、流されける。平家滅び、源氏の世になりて、東国へ下り、
梶原景時に附いて事の根元 一々に申したりければ、鎌倉殿(頼朝のこと)、神妙なりと感じ給いて、
能登国に御恩蒙りけるとぞ聞こえし」とあり。
以上にあるように長 信連、頼朝より能登国大屋庄を賜る。
三州志 鳳至郡穴水城條に「長谷部信連、初め能登郡の熊木に住し、後、穴水大屋庄 河原田に住すと、
長家記に見ゆ。それより長氏、暦世の間、往々転居はあれども、二十世の綱連まで、三百八 九十年
ばかり、かの穴水に居城せり。然るに天正四年、謙信 能登へ乱入の時、綱連、穴水を引き払い、
七尾城に移る。よりて越兵これに代わり居りたりと云う。同郷菩提所 瑞源寺に歴代の位牌あり。
長氏 代々の序次は、信連より、朝連、政連、有連、盛連、国連、宗連、正連、頼連、左衛門尉(実名
不知)、藤連、泰連、政連、光連、秀連、氏連、教連、英連、続連、綱連、連龍と。連龍までにて
二十一代也。これ正統なり」とあり。
東鑑、建保六年十月二十七日條に「今日、左兵衛尉長谷部信連法師、能登国大屋庄 河原田に於いて
卒す。これ故三條宮の侍、近くは関東御家人也。長馬新大夫為連の男也」とあり。
上記により系図を作れば以下の如し
長 為連−信連(鎌倉御家人)−朝連−政連−有連−盛連−国連−宗連(足利義詮に属す)−正連−頼連┐ |
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