深谷 吉次の墓

大目付 深谷盛房が 文化二年(1805)に建てた 深谷吉次の墓 慶長三年(1598)九月二日、俊叟全勝禅定門と記されています(左を拡大)
秀吉の関東征伐の一環として深谷城は開城せざるを得なくなり、戦に負けて「全勝」とは不思議と思われるところですが
法名の全勝は 戦の勝ち負けには関係なく、息子の勝直を家康に仕えさせる事が出来たことによります。
即ち、「勝直を全(マットウ)せしむ」によります。この時、勝直は 名前を盛吉と変えて家康に仕えました(関が原戦の前)。
お爺さんである深谷城主 上杉憲盛の盛、親父の吉次の吉の字を貰って「盛吉」です、セイキチではありません、
モリヨシ
尚、憲盛は謙信と ほぼ同世代、吉次が本家に習って最初は息子に勝直と勝の字を付けた、と伝わっています。
謙信の養子である景勝は大幅に減封され東北の一大名に成り下がった事は ご存知の通りです。

 

裏面の画像 古い墓碑を新しくした石碑(1992年)、

 


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