2015/8/21付 日経新聞

終戦直後 避難船の無念 北海道沖、ソ連軍が攻撃
女性・子供ら1700人犠牲 遺族「事実認め謝罪を」

終戦直後、南樺太(現サハリン南部)から逃れる邦人を乗せた3隻の船が北海道沖で潜水艦に攻撃され、1700人以上が命を落とした「三船遭難事件」。
1990年代になって旧ソ連軍による攻撃の可能性が高いことが分かったが、ロシア政府は公式に認めていない。
「女性や子供が多く乗った船を、なぜ」。遺族らは今も割り切れない思いを抱えている。

当時の様子を語る吉田さん(東京都新宿区)

 「地獄絵図だった」。当時9歳で乗船した「第二新興丸」で事件に巻き込まれ、家族とともに九死に一生を得た吉田勇さん(79)=東京都国分寺市=は振り返る。

 「新留萌市史」などによると、第二新興丸は45年8月21日、約3600人を乗せて、当時日本の領土だった樺太南部の大泊港を出港。同月9日に対日参戦した
ソ連軍の侵攻を受けた緊急疎開船で、高齢者や女性、子供が多く乗っていた。事件が起きた
22日早朝は北海道の小樽港に向け、留萌沖を航行中だった。

 「ドカン!」。明け方、突然の爆音とともに衝撃が走り、甲板で毛布にくるまっていた吉田さんは吹き飛ばされた。海には船から放り出された人の無数の頭が見えた。
すでに息絶えた人、箱荷物にしがみつく人
……。必死で家族の名前を叫ぶ声も聞こえた。

 魚雷攻撃だった。乗船者で埋まった二番船倉付近で爆発が起き、多くの命が一瞬で奪われた。やがて近くに潜水艦の機体が浮上、戦闘になった。
「元気な者は弾丸運びを手伝って!」。吉田さんも夢中で加わった。

 敵の機銃にやられ、近くにいた人がうめき声を発して倒れた。吉田さんの記憶では、潜水艦が再び海中に姿を消すまで30分ほどだったが、「はるかに長く感じた」。

 近隣の海域ではこの日、「小笠原丸」「泰東丸」も攻撃を受けて沈没。留萌港にたどり着いたのは第二新興丸だけだった。

 潜水艦は長く「国籍不明」とされてきたが、92年に日本の大学教授の調査などで、ソ連軍の所属だったとみられることが判明。
留萌市教育委員会などには当時見つかった、ソ連側の軍事資料とみられる文書のコピーが保管されている。

 それによると、ソ連軍は北海道北部の占領を計画し、先遣隊として潜水艦2隻を派遣。21日に留萌沖に到着し、22日午前に付近を通過した3船を攻撃したとみられる。
だが
23日午前0時ごろになり、潜水艦に「攻撃禁止」の命令が下る。ソ連の指導者スターリンが上陸作戦を中止したとされる。

 3歳で第二新興丸に乗船し、事件を調べてきた青森県むつ市の畑中浩美さん(73)は「わずかな時間のズレが悲劇を招いた。8月15日の後も樺太では
ソ連の侵攻が続いていたが、北海道を目前にした海で攻撃されるなどとは多くの乗船者が思っていなかっただろう」と犠牲者の無念を推し量る。

 「樺太引揚三船遭難遺族会」は外務省を通じ事実を認め謝罪するようロシア政府に求めてきたが、明確な回答はない。
小笠原丸に乗っていた母を亡くした永谷保彦会長(
86)=札幌市=は「関係者も年々高齢になっているが、声が続く限り、事件のことを訴えていきたい」。

 遺族会は今年も事件前日の8月21日に留萌市内で慰霊祭を開く。