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解説 |
錦織の名字の由来は 三通りあります。
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以下に古文書に見える人物 及び錦織についての記事を記します。
●近江国滋賀郡の錦織庄から起こった錦織氏あり、
諸系図纂に「(山本)義経-義弘(錦織、錦織判官代と号す、寿永二年十二月二十一、右衛門少尉、使の宣旨を蒙り、元暦元年正月二十一、
義仲に同意、関東の士 入洛後、粟津原より逐電す)-義重」とあり。
●又、上記の分家 河内に移る。中興系図に
「錦織、清和源氏、本国 河内錦織郡。新羅三郎義光の四代 山本義経の三男 冠者 義高・これを称す」とあり。
又、南方記伝に「元弘元年八月三十日、笠置寄せ手、陶山、小見山 夜討ちして、官軍 敗亡。錦織飛騨判官 源義継、息 義右
以下 十三人、城中に於いて自害」とあり。
この錦織は 後醍醐天皇に従った 勤皇家なり。義継は 義高の息子なり。
●卜部氏の流れを汲む堂上家として、江戸時代、京都の聖護院辻子に錦織(ニシゴリ)家 有り。
錦織教久、明治の中頃、子爵を賜る。家紋、丸に三柏。
尚、滋賀県野洲市にある仏教寺院 錦織寺は、真宗 木辺派の本山で「キンショク寺」と言う。
これを あえて 訓読みして 明治になって 名字にした人が居るかどうかは 神のみぞ知るところなり。
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