錦織(ニシコリ・ニシゴリ・ニシキオリ・ニシコオリ)

解説

錦織の名字の由来は 三通りあります。

 

① 錦織さんは 大和朝廷の頃、錦の織物を織る事を職業にしていた方々が
  名字を名乗るようになって、 氏、或いは名字を名乗った子孫です。

錦の御旗(にしきのみはた)を織っていた先祖も いたことでしょう。

②上記の方々が住したことにより、地名が出来て、その錦織の地名を以って
   名字とした方々の子孫です。

③河内国(今、大阪府富田林市)に錦織神社有り。その神社の縁により名字にした。

その地名等と読み方を記します。

宮城県登米郡東和町に錦織(ニシキオリ)の地名あり。

岐阜県加茂郡八百津町に錦織(ニシキオリ)の地名あり。

滋賀県東浅井郡びわ町に錦織(ニシコオリ)の地名あり。

大阪府富田林市に錦織(ニシキオリ)の地名あり。

岡山県久米郡中央町に錦織(ニシコリ)の地名あり。

尚、上記神社の呼び名は 最上段に記したように四通りの呼び方があります

以下に古文書に見える人物 及び錦織についての記事を記します。

●近江国滋賀郡の錦織庄から起こった錦織氏あり、

諸系図纂に「(山本)義経-義弘(錦織、錦織判官代と号す、寿永二年十二月二十一、右衛門少尉、使の宣旨を蒙り、元暦元年正月二十一、

義仲に同意、関東の士 入洛後、粟津原より逐電す)-義重」とあり。

●又、上記の分家 河内に移る。中興系図に

「錦織、清和源氏、本国 河内錦織郡。新羅三郎義光の四代 山本義経の三男  冠者 義高・これを称す」とあり。

又、南方記伝に「元弘元年八月三十日、笠置寄せ手、陶山、小見山 夜討ちして、官軍 敗亡。錦織飛騨判官 源義継、息 義右

以下 十三人、城中に於いて自害」とあり。

この錦織は 後醍醐天皇に従った 勤皇家なり。義継は 義高の息子なり。

 

●卜部氏の流れを汲む堂上家として、江戸時代、京都の聖護院辻子に錦織(ニシゴリ)家 有り。

錦織教久、明治の中頃、子爵を賜る。家紋、丸に三柏。

 

尚、滋賀県野洲市にある仏教寺院 錦織寺は、真宗 木辺派の本山で「キンショク寺」と言う。
これを あえて 訓読みして 明治になって 名字にした人が居るかどうかは 神のみぞ知るところなり。


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