尖閣諸島は 19世紀の初めには ドイツ・フランスは 琉球領と認識していた

 

1804年のドイツ製地図では 尖閣諸島(沖縄県石垣市)は 琉球領になっている。
これは 何を意味するかと言えば 西洋諸国は 既に尖閣を琉球領と認識していと言う事です。
当時の石垣近辺の琉球人 及び 台湾人は 尖閣を琉球領と認識していたと言う事です。
そうでなければ 現地を訪れた西洋人が台湾と尖閣の間に国境線を引くわけがありません。
当然清国人にも 確認したことでしょう。

1887年に発刊した「ロンドン・アトラス」でも、尖閣諸島の西側(台湾寄り)に赤いラインで国境線が引かれている。
尚、清国の官僚が1889年に清国政府に提出した日本研究の報告書(游歴日本図経)も、尖閣諸島を日本の領土として明記しています。

もっと古い 明国の「皇明実録」には「「華夷(明と異民族)の共にする所」と記されています。
即ち、「公海だ」と記されているのです。

「南は 台山(台山列島)、礵山(四礵列島)、東湧(東引島)、烏坵(烏坵嶼)、彭湖(台湾の澎湖諸島)、彭山(南澎列島)まで、
これ皆 我が閩門(福建省)の庭の内である、 一歩たりとも入る事を許容出来ようか、いや 許容出来ない」と記しているのです。
」と言う字は この場合は 「入る」「入り込む」と言う意味です。
「この外は溟渤(大海)であり、華夷(中華と諸外国)の共にする所」とあり。


「明・清の皇帝が東シナ海は 危険」と云う認識を持ったのは 蒙古の船団が台風で沈んだ事です。
二度目の蒙古襲来時の将軍は南宋の范文虎(モンゴリアンではなく中国人)であり、10万人の軍団だった事は 皆の知るところです。

明の時代に中国の大航海時代に活躍した鄭和が通ったのは台湾海峡です。東シナ海は危険と云う認識があり、台湾より日本寄りには航行しなかった。
明・清の時代には魚は近海にうようよ居ました。よって 中国の漁船も そんな危険な所まで出る必要がなかった。
只 わずかに琉球国との交流は有りました。

1970年頃になって、尖閣諸島の島々の名前が中国の古文書に出てくるので 「中国固有の領土だ」と主張しても
たまたま琉球国の島の名、或いは 未知の国の島の名を記録したに過ぎず、その島々が清国の「福建省 釣魚島」と記されているわけではない
そもそも 釣魚島(台)と魚釣島は 別の島です。「釣魚台」は尖閣諸島とは別の、台湾島の南東の島です。

即ち、清国の領土と言う訳ではない事になります。
また、「中国は1372年に琉球国王を冊封してから1894年の日清戦争にいたるまで、500年あまりにわたって釣魚島の主権を有し、
管轄、航海利用、漁獲作業、海防・巡航を行ってきた」と云う説を出しているが

それであれば 1885年に古賀辰四郎と云う実業家が 尖閣諸島で鳥毛を採取し、外国人にその羽毛の販売を試みた時に
中国は 日本人の羽毛取りや漁業に携わる人々の排除活動をしたはずです。
日清戦争(1894~95年)の10年も前の事です。
中国(清国)とは 何のトラブルも起きていません。この事は中国は 巡航もしていなければ 魚釣島に主権があるとは認識していなかったという事です。

中国は 清の乾隆帝の時、史上空前の領土としたが その領土は 陸続きの領土であり 海には 目が向けられていなかった。
尚、清国は 国として周辺地域を自国の領土としたが 徳川幕府は 島津藩に命じて琉球国を取ったのではありません。
島津藩の要求を認可したに過ぎません。

薩摩の侵攻に対し琉球王府は 明に救援を求めた。しかし 明は侵攻に関し 一切救援を送らないどころか、これを黙殺した。

これは何を意味するかと言えば 琉球国は 明国の領土でないと言う事です。
琉球国は 中国の冊封国であったと同時に 薩摩藩の服属国でもあったのです。琉球使節の江戸参府は 1634年から1850年までに18回行われました。
尚、冊封国は 自国の国を意味しません。超 友好国です。

清朝末期に台湾にて発生した「琉球漁民殺害事件」でも、日本の副島種臣 外務卿が1872年に公式に清に赴き抗議したが、
清朝側では「台湾は化外の地(国家統治の及ばない地)であり掌握していない」として清国に責任なし、とした。
李鴻章も陸から見えない尖閣諸島など、当時 何の価値もない島には無関心だったという事です。

時代によっては 台湾も化外の地なのです。

明治政府は 尖閣諸島が 清国(台湾)の領土にもなっていない事を確認し、1895年、日本の領土(沖縄県)に編入した(先占の法理)。
国際法で認められる領有権取得の方法です。
その後、魚釣島には かつお漁の工場も建てられ 可なりの人数の日本人が その島で 生活した時代がありました。

尚、1920年、魚釣島に漂着した中国人(福建省の漁民)漁師を助けたことへの感謝状が、中華民国 駐長崎領事・馮冕より石垣島に送られており、
その中に「八重山郡 尖閣列島」と明記されている。中華民国は 当時は 中国本土の国名(現在の台湾ではない)である。

1970年頃になって中国が自国であった中華民国の書状を認めないという事は 勝手な言い分で 国際社会に通用しないのでは。

第二次世界大戦の結果、尖閣及び沖縄は アメリカに接収された。
1972年 日本に返還された後は 尖閣諸島の一部の島は 米軍の射撃場になっている。

と言う事は 2020年の現在も 尖閣諸島は 日本の領土と言う事です。

税金による艦艇の巨大化は お互いの国民にとっての負担です。
止めようではありませんか。

 

* 中国は 尖閣諸島が日本の領土と言うのに「中国の固有の領土」と主張して 艦船を侵入させている。
   もしかすると 南シナ海の島々も 明らかにフィリピンやベトナムの島なのに中国の領土だとして 強引に押し通しているのではないか。
誠に遺憾なことです。


以上、藤原鎌足 孫 45代 藤原三能


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