苗字 

藤    原

 

























 






解 説

大和 伊勢 上野 下野 磐城 岩代 陸中 豊後などに この地名あり。

最も有名なるは、大和国高市郡藤原(今の鴨公村高殿の地)にして 平城京に遷都し給うまで、

十六年の帝都(藤原京)なり。中臣鎌足が賜いし藤原の氏(名字)も、この地名によるにて、多武峰縁起に

「大織冠鎌足、推古天皇二十二年八月十五日、大和国高市郡大原の藤原第に生まる」と伝えられる。

鎌足は中大兄皇子(後の天智天皇)を助けて、蘇我蝦夷・入鹿 父子を誅し、血縁社会から律と令による社会、

即ち大化改新の大業を翼賛す。その功 莫大なれば、天智天皇は、先にも後にも無いと云う大織冠と云う官位と、

この氏(苗字)とを与え給えり。これ藤原氏の起源にして、その子 不比等も又 不出生の英雄、大宝・養老の

律令撰定などに功多かりしのみならず、その娘 宮子は文武天皇の妃となりて、聖武天皇(東大寺を建立)を

生み奉り、又 その妹 安宿姫は長き間の例を破りて、臣下より皇后に上り、孝謙天皇を生み奉る。光明皇后これ

なり。斯くの如き功労と外戚関係より、藤原氏は 大いに栄えて、不比等の子 四人は、四つの家を創立して

子孫 朝野に渡る。即ち長男 武智麿は南に住みて南家と云い、二男 房前は 北に家して北家と云い、

三男 宇合は 式部卿を兼ねたるより式家と称し、四男 麻呂は左京大夫を兼ねて 京家と称す。これ藤原四家の

起源なり。凡そ臣下にして藤原氏程 長く一国の政権を掌握せしは、我が国は勿論、世界にもその例なし。

奈良朝の終わりより明治の始めまで、千有余年の間、朝廷の高位高官は殆ど全部、この氏の占めるところとなる。

従って支族の多き事も他に例を見ず。

*藤原の地名は100ヶ所以上、それらの地名を氏(名字)とする人もあり。

* 特に明治になって「苗字必称令」により藤原を名乗る人甚だ多く

  現在全国で約10万人おられる。

分派氏族

数える事難し 

1,藤原名字 − − 天智紀八年條に「天皇・東宮大皇弟を藤原内大臣の家に遣わし

         給いて、大織冠と大臣の位とを授け給い、よって姓を賜いて

         藤原氏と為す。これより以後、通じて藤原内大臣と云う」と。

  
              ┌武智麿(南家)
  ┌定恵         ├房前(北家)
鎌足┼不比等――――――――┼宇合(式家)
  ├氷上娘(天武女御)  ├麿(京家)
  └五百重娘(天智女御) ├宮子(文武妃・聖武母)
              ├光明子(聖武妃・孝謙母)
              └多比能(橘諸兄室)

2,藤原南家 − − 武智麿の後にして、長男 豊成は 有名なる中将姫の父にて、右大臣に上る。

         二男 押勝は孝謙天皇の御信任を得、恵美の押勝と云う美名を賜いしが、道鏡と争いて

         身を滅ぼし、三男 乙麿は 工藤一族の祖先、子孫 武家として栄える。工藤祐経も

         曽我兄弟もこの後裔と称す。長男豊成、二男押勝の後は一時 大いに栄えしも後世 余り振るわず。

         又 三男乙麿の後は武家として有名なるも中央にては栄えず。かくして後世この南家にて、

         中央に蔓りしは四男巨勢麿の後裔のみ、彼の時平と共に道真を陥れし菅根、琵琶にて有名なる玄上、

         武勇にて名高き保昌、その弟にて盗賊の頭となりし保輔、博学多才の通憲(信西入道)、及び

         熱田大宮司家中興の祖 季範、皆この裔なり。

3.藤原北家 − −房前の後にして、その子に永手、真楯、清河、魚名などありしも、その勢力 到底南家、式家に及ばざりき。

         真楯の子に内麿、ついで、その子に冬嗣の如き俊才現われしにより、この家 始めて起こる。

         冬嗣は非凡なる人物にて、単にこの流を興せりと云うよりは、藤原氏中興の人と云うを適当とすべし。

         彼は 一族師弟を教育するために勧学院と云う学校を設け、又 一族中の貧乏者を救わんが為に施楽院を復興し、

         又 奈良に南圓堂を建てて、冥福を祈る。これらの努力は著々功を奏し、一族中より人材続出するに至りしも、

         又 一方、その子 順子 仁明天皇の後宮に入りて、文徳天皇を生み奉るが如き幸運もありて、その男

         良房は 遂に人臣にして、初めて太政大臣に登り、次いで臣下にして摂政となり、続いてその養子 

         基経も摂政となり、後 関白となる。これより子孫代々 摂政関白となり、又 代々の皇后は殆どこの

         氏から出づることとなり、道長に至って、その絶頂に達す。

         後に五摂家と言われる 近衛 鷹司 九条 二条 一条の五公爵家は、道長 直系の後裔なり。

4,藤原式家 − −宇合の後にして、藤原四家中、初め最も栄えし流にして、宇合の四男 広嗣 先ず現われしも、僧 玄坊と

         争いて敗死す。されどその弟に百川の如き人材現われて、光仁天皇を擁立し奉り、その兄 良継の娘

         乙牟漏は桓武天皇の皇后になりて、平城、嵯峨、の二天皇を生み、又 百川の娘は淳和天皇を生み奉れり。

         かく人材を出し、且つ三代に渡って皇室の外戚たりし関係より、一時飛ぶ鳥を落とす勢いなりしも、

         後に北家との競争に敗れて、又 昔日の観なく、ただ地方官として、有名なる吉野や、平将門征伐の大将軍

         忠文を出せしと、学者の家として残るのみ。

         殊に 鎌倉以後は殆ど聞こゆるもの無きに至れり。

         但し 遠藤氏はこの裔と称す。

5,藤原京家 − −不比等の四男 麻呂・左京大夫を兼ぬるにより京家と言う。

         四家中最も栄えず。従ってこの裔と称する氏は、殆どなし。

  参議兵部卿麻呂┬綱執(参議)
         ├濱成(刑部卿)−豊彦(豊後守)−冬緒(大納言)−灌木(大学助)
         └百能(桓武御宇尚侍)

6,堂上藤原− − 昇殿をゆるされた藤原氏は以下の如し。

  鎌足−不比等┬武智麿
        └房前┬真楯−内麿┬真夏(日野流)
           └魚名   └冬嗣┬長良(高倉流)       ┌道隆(水無瀬流)     ┌師通(摂家流)
          (四條家)     ├良房−基経−忠平−師輔┬兼家┴道長┬頼道−師実―――――┼家忠(花山流)
                    └良門         └公季   ├頼宗(中御門流)  ├経実(大炊御門)
                    (勧修寺流)      (閑院流) └長家(御子左流)  └忠教(難破)

 

7,大和の藤原 − − 鎌足、大和国高市郡藤原第(大原)に在り。興福寺は藤原氏の氏寺、春日神社は氏神なり。

           又、多武峰 談山神社は 鎌足の廟所なり。

8,箸尾氏族− − 大和国添上郡東市村の藤原城によりし豪族にして、広瀬郡箸尾氏の族類なり。

         筒井諸記に「広瀬郡箸尾の族、箸尾氏 藤原道順(添上郡 藤原村)」とあり。この氏(名字)は、

         この地名を負いしにて、いわゆる藤原氏とは 別ならん。

9,和泉の藤原苗字 − − 僧卜半斎了入は、俗姓 藤原氏にして、日野権大納言内光の次子なり。幼名幸丸と云うと伝えられる。

            天文十九年、願泉寺の住職となり、同寺を中興す。

10,摂津の藤原− − 豊島郡八幡城(細河村伏尾)は、東野山にあり。

            多田満仲の家臣 藤原仲光、在城し 後に播磨守、在城と伝う。

            又、矢田部の名族に存し、又、大阪にも多し。

11,飛騨の藤原− − 幽討餘録に「上総介藤原忠清の弟を飛騨守景家と為す。

       その妻、平 内府宗盛の乳母なるが故に、その子 判官景高、兵衛尉影康、

       三郎景経、四郎景俊、皆 平氏の為に厚遇せらる。治承四年、庁使、

       鎮守府将軍藤原秀衡 檄に云う、関東諸国挙って源頼朝に帰す。余す所

       伊賀、伊勢、飛騨、陸奥、出羽あるのみ」と。

12, 遠江の藤原 − − 山香郡小股京丸村は、京人 藤原氏 左衛門佐なる者、臣僕を従いて、

       蟄居せし地にて、慶長五年、検地、村となす。

       二十五家ありたりと。

13,信濃の藤原 − − 桂宮院柱銘に「清心名誉顕末期、大治三年三月、信濃国住、丹波大掾 藤原長重」とあり。

       又、諏訪志料に「藤原氏 鎌足の裔、光家を祖とす。光家・左近将監、伊賀守、正五位下、(父を忠元と云う)、

       次は光久・左近将監、丹後守、右馬権守、従四位上蔵人に至る。次は光遠・左馬権介、丹波守、左衛門

       蔵人、従四位上。康永三年三月三日卒(光久の三男)。次は光春・播磨守、雅楽介、正五位下、左兵衛尉蔵人

       (光遠の次男)、この人 甲信の間に居住す。次は高光、次は弘盛、次は安只、次は景家、次は国長、

       次は忠清、次は家頼 この人武田家に属し蔵人と云う。次に蔵人高安に至り、仁科家の組下に属し仕う。

       武田氏没落の時浪人し、諸所に流浪す。後 その旧友 遠藤但馬守政則、三木主膳重舟と共に諏訪郡に潜む。

       適々 武田家の旧臣土屋惣蔵の妹 諏訪家の重臣小澤主膳の妻となり居ることを伝聞し、その助けにより

       小川郷の湖畔、砂洲を開墾す、これ当地 藤原苗なり」と。

       当地のこの氏は、丸に笹竜胆、丸に上り藤などを家紋とす。

14,相模の藤原 − − 極楽寺建久七年鐘銘に「大住郡の辺に一伽藍あり、極楽寺と名づく。蓋し、曾祖父藤原盛季の

       福田也。弟子 左兵衛尉有季、先祖の本願を尋ね、当時の興隆を思い遂に修復を致す」と。

       又、大和吉野 蔵王堂 文永元年鐘銘に「大工 鎌倉新大仏鋳師 藤原行恒」とあり。

15,武蔵の藤原 − − 新編風土記、比企郡玉川壘(玉川郷)條に

       「ここは龍福寺を開基せし藤原盛吉の居蹟なりと云う。この人 俗名を左京と呼びしと云い伝わるのみ、

       年代等全て詳かならず。この壘蹟より古鏃など掘り出す事 間々あり」とあり。

16,上野の藤原 − − 利根郡に藤原村あり。阿倍貞任の裔 阿倍三太郎秀貞 この地に在りたりと云う。

       上野志に「藤原の砦は小田原に属す」と。

       又、後世 前橋の人 藤原荘助仲導は、儒者にして、酒井侯に仕う。

17,秀郷流藤原 − − (平) 将門記に「下野押領使 藤原秀郷」とあり。

       今 唐澤山神社は この人を祀る、下野国安蘇郡田沼町に鎮座す。

       諸説あるが、尊卑分脈には

    「魚名−藤成(伊勢守)−豊澤(下野権守)−村雄(下野大掾)−秀郷(下野守・武蔵守・鎮守府将軍)」と。

      子孫甚だ多く、奥州藤原、佐藤、首藤、波多野、近藤、武藤、大友、少貮、足利、佐野、

      小山、結城などは その内の大なるものにして、その支流は 挙げて数え難し。

18,利仁流藤原 − − 北陸の大族にして、子孫 越前、加賀、能登、越中などに充満す。尊卑分脈に

    「房前−魚名(左大臣)−鷲取−藤嗣−高房−時長(常陸介・鎮守府将軍)−利仁(鎮守府将軍・武蔵守・

     上野下総介・母は越前国人 秦豊国の娘。海路を飛ぶ、羽ある人の如く、以って神化の人となす。

     延喜十一年、上野介に任ぜられ、同十二年上総に廷し、同十五年、将軍の宣旨を蒙る)」とあり。

19,奥州藤原 − − 陸奥国亘理郡に在りて、亘理氏と称す。或は本姓 亘理氏か。

     後三年記に「清衡は、亘理の権大夫経清の子なり。経清、貞任に相ぐして討たれし後、武則の太郎武貞、

     経清の妻をよびて、家衡をば 生ませたる」と。

20,上総の藤原 − − 朝野群載、ェ平二年に「藤原菅根・上総の藻原荘を以って 興福寺に寄す」と。

       又、町村志に「法興寺銅磬、銅鉤器、共に銘識ありて、鉤器には 大永四年、願主 藤原胤藤 云々」と。

21,下総の藤原名字 − − 貞和五年十一月の宝福寺鐘銘に「大工 藤原末政」あり。

       又、明治十一年、藤原文貞公碑に「北條高時、千葉貞胤をして、公を その村に幽す」と。

       文貞公とは藤原師賢なり。小御門神社に祀る。

22,常陸の藤原 − − 天慶二年、藤原惟幾、当国の介となる。将門記に「長官 藤原惟幾朝臣」、

       「常陸介藤原惟幾朝臣 息男為憲」と。工藤、伊東、二階堂の祖なり。

       又、新治郡土浦城(三浦町西町)は「昔、平将門の関八州を横領するや、藤原玄茂を常陸介に任じて

       国府に置き、ここに一城を築き、以って常陸、下総の咽喉を塞さがしむ。関東八名城の一なり」と。

       又、天暦中、藤原為信 介となり、坂東八国の押領使を兼ねる。また、

       鹿島永享文書に権案主 藤原助茂などあり。この類は他に多し。

       又、式内稲村神社は「文武帝 慶雲四年、 左兵衛督 藤原富得の経建するところ也(池田村鏡山城主)。

       この年、三千貫の地を富得に賜い、神王の事を摂行せしむ」と伝う。

23,出羽の藤原 − − 庄内物語に「昔 源義家、後三年の合戦に武衡 家衡 誅伐の時、大泉に陣し、利を得給う。

       地の利 宜しきより、藤原光広にここを賜う。

       その後 承久二年、平 義時、後鳥羽院を隠岐国へ流し奉る時、光広の三代孫 大膳亮広利、その子

       刑部大夫広正を鎌倉へ召し、蝦夷の島へ配流の由、龍峰道程記、王代古遷記にあり」と。

       又、羽源記には「古え 光衡と云いし人、出羽国司となりて在せしに、羽黒衆徒の反逆により切腹す」と。

24,越後の藤原 − − 当国藤原とあるは 多く上杉氏なり。上杉は武士に成りし 藤原氏の典型なり。

       居多社 観応二年文書に「従五位行民部大輔 藤原朝臣憲顕」とある如き之なり。

25,丹波丹後の藤原 − − 天田郡の名族にありて、丹波誌に

       「藤原藤太秀郷、子孫 観音寺村、古え 丹後国尾藤村より来る」と。

26,因幡の藤原 − − 東作志、吉野郡西栗倉庄影石村條に「この村 影清に因める事多し。按ずるに

       悪七兵衛影清は上総守忠清の子にして、上総に生まる。

       七歳にしてその伯父 大日坊を殺すよりして、悪七の名ありと云う。

       未だ美作に生まる事を聞かず。想うに西北條郡古川村に景清山宝性寺あり、相伝う、

       義詮将軍の時代、因州の人 筑後守藤原影清なる人、苫西郡黒川村(今の古川村)を領す。

       江見、村上などと連年闘う。貞治六年秋 殺され、その母も溺死す。影清の族 風戦居士・

       一寺を営み 影清山宝性寺と号すと云う」と。

27,石見の藤原 − − 建仁の頃 藤原国兼 守護に補せられ、子孫 御神本

      (ミカミモト)、益田、三隅、福屋などとして当国に栄える。

28,播磨の藤原 − − 天平宝字七年の頃、藤原貞国なる人あり。異賊を追伐すと、峰相記、寺社旧記抄などにあり。

       又、神崎郡香呂村中須賀院出土の天養元年銘、瓦経願文に「この寺は即ち我が朝賢王前一條院の御願寺、

       鎮護国家の大伽藍なり。昔 祖勘解相公 藤原有国、ならびに従三位 橘徳子、同心合力、殊に忠節を存ず。

       その息 参議広業、三位資業、当州 勅史たるの時 云々」と。

29,儒者の藤原 − − 江戸初期の儒者に惺窩あり。朱子学派の祖、播磨の人。

       藤原(冷泉家)定家の十一代の孫、兄を為勝、父を為純と言う。

       定家は新古今和歌集の撰者として有名。

30,美作の藤原 − − 笠庭寺記に「英田郡樽原郷(茄子十籠)藤原貞次」見え、

       後世 英田郡川合庄王子権現鍵取に藤原伝十郎あり。

31,菅家族 − − これも美作の名族にして、広戸矢櫃城主、菅原正実の孫

       広戸善兵衛安英、ェ永元年、勝田郡小吉野庄に来たり出雲井氏に頼り、

       氏を藤原と改むと。子孫 現に藤原氏と云う。

32,備前の藤原− − 海東諸国記に「貞吉。丁亥年、使を遣わし来りて観音現像を

       賀し、書して備前州友津代官 藤原朝臣貞吉と称す」とあり。

33,備後の藤原 − −海東諸国記に「光吉。戊子年、使を遣わして来朝し、書して

       備後州友津代官 藤原朝臣光吉と称す。宗貞国を以って接待を請う」と。

34,安芸の藤原 − − 伝え云う、藤原伊尹の男 義懐、花山法皇に従いて西国を巡り

       当国呉の鹿田の里に来る。時に正暦五年春の頃なり。法皇に別れ奉り、この地に住す。

       その二十七代の孫に塩津城主 藤原好清あり、

       大永の頃、大内氏に仕え氏(名字)を賜いて、中塩勘右衛門藤原好清と称すとぞ。

       その男は、中塩治部左衛門清栄にして、以来、勘右衛門を通称とし、時に治部左衛門、勘助などと称す。

       家紋はもと 下り藤を使用せしが、後に その中に唐団扇を入れ、時に 丸に唐団扇を用う。

       また、平原神社を祖霊社とす。

       又、承久の頃、周防前司 藤原親実、厳島社の祠官となる。

35,長門の藤原 − −海東諸国記に「正満。戊子年、使を遣わして来朝し、書して

       長門州乾珠満珠島代官宮内頭 藤原正満と称す。宗貞国を以って接待を請う」と。

       正満、当国二宮忌宮神社の神主かと云う。

36,紀伊の藤原 − − 続風土記、那賀郡池田荘領主條に「東鑑を按ずるにこの

       地は藤原秀郷朝臣の領となり、子孫世々この地を領す」と。

       又、宮村の中氏、ェ喜三年の文書に「毛原郷総追補使 藤原為俊」を載せ、

       又、中世 右馬允 藤原実家 和佐庄を領し、嘉禄中、大納言 坊門定能の室 冷泉の局に譲り、

       局、また之をその娘 大宮局に譲る時、下村 南村を歓喜寺に寄せ、和佐又次郎実村を以って地頭となす。

       同寺の延文五年文書に見えたり。

       又、保安年中、隅田党の中、藤原忠村をして伊都郡隅田八幡宮別当職に補す。子孫連綿たりと。

       又、在田郡箕島村祇園社は、天文四年、宮崎城主藤原定茲、同 雲秀、改めて造営すと云う。

37,淡路の藤原 − − 一條院永祚中、藤原兼家の族 藤原成家、当国国司代となり、安覚寺を創立す。

       又、文明中、藤原親秀あり、子孫 船越氏に滅ぼされる。

38,阿波の藤原 − − 阿波志に「海部城は一に鞆城と称す。藤原友光 ここに拠る。

       鞆浦山下に在る者、恐らくはこれならん。天正五年秋、秦 元親、甲浦 埜根 二壘及び

       宍倉壘を抜き、遂に来たりてここを抜き、田中長政を守たらしむ」と。

39,讃岐の藤原 − − 全讃史に「長尾金丸城は、昔、伊予掾藤原純友 この城にかくれる。藤原千常 これを討つ。

       純友の墓 猶在り。

       又、大野城は大野村にあり、大野大炊居る。大炊助は中御門中納言 藤原家成の四世の胤、大野大夫有高の

       末葉なり。元暦の時、屋島の役に勲有り、因りて食邑を大野に受け、故に大野を以って氏(名字)となす」と。

40,桓武帝裔 − − 伊予国の伝説に伊予親王の王子 為世、嵯峨天皇の時、勅して 皇子に准ぜられ、藤原姓を賜い、

       無冠にして五位に叙し、浮穴四郎藤原為世と称すとぞ。

41,伊予の藤原 − − 忽那島開基の祖、藤原親賢朝臣は右大臣正二位、長治元年 薨ずと云う。

       又、伊予郡谷上山宝珠山(上吾川村字谷上山)は、大洲旧記に「当寺は 村上天皇御宇、天暦七年、

       筑紫領主太宰大貮 藤原朝臣国光公、この表にて海上難風に依りて願望す、たちまち波鎮まる、依って再興す」と。

42,筑後の藤原 − − 高良社祭神は、藤原大臣保連(連保)と伝えられ、

       諸社根元記に「高良神は藤原大臣連保なり」とあり。

43,肥前の藤原 − − 河上社天永三年(1,112)文書に藤原朝臣宗明、保安元年(1,120)に藤原朝臣為実など

       早くからこの氏 出現す。

       又、下って応仁文明に藤原讃岐守胤明とあるは、大村氏にて、藤原政資とあるのは、少貮氏なり。

       又、山城の人 藤原重則あり、大村彼杵大黒丸に来住す、

       又、彼杵郡、天正五年、菅牟田砦に藤原吉茂 戦死と。

44,肥後の藤原 − − 菊池氏の人は古くより藤原姓と載せ、又、相良文書球磨郡

       田数領主目録に「人吉庄下司藤原友永、政所藤原高家、地頭藤原季高、

       (藤原茂綱、藤原真宗)、藤原真家、藤原家基」等を載す。

45,壱岐の藤原 − − 文永の役に当国守護代 藤原兼隆(平内左衛門経高)あり。

46,薩摩の藤原− − 建久八年の圖田帳に「権掾藤原朝臣在判」とあり、在廳家弘の事なり。

       又、「目代右馬允藤原在判」と。在廳道友の事にて、同帳に

       「高城郡公領時吉十八町、名主 在廳道友。薩摩郡公領時吉六十九町、

       名主在廳道友。甑島上村二十町、本地頭在廳道友。薩摩郡公領是枝九町、名主家弘」等あり。

       又、楫宿郡楫宿郷東方村 間水神社は、応仁二年 藤原安次 造立すと 棟札にあり。

47,大隅の藤原− −建久九年御家人交名に「税所撿校 藤原篤」とあり。下って

       国府郷小浜村、早鈴神社の棟札に「嘉吉二年二月、藤原次平造立」と載せ、

       又、肝付郡百引郷百引村右牟礼神社 文明十七年十一月の棟札に

       藤原美作守忠常、菱刈郡田中村諏訪神社 延徳三年四月棟札に

       「藤原朝臣佐兵衛尉重時 再興」などあり。

48,日向の藤原 − − 宮崎縣主藤原忠泰、舎弟 忠成 などあり。

49,豊前の藤原 − − 海東諸国記に「彦山座主 黒川院藤原朝臣俊幸」とあり。

50,鎮西の藤原 − − 当氏にして太宰の権帥、大貮 少貮となりし人は、国史に多く見え、挙げて数え難し。

       ェ平元年、十二月文書に「従四位上行大貮 藤原朝臣保則」とある如く、記録文書にも多し。

       殊に平安末期には、中関白(道隆)家の人、数々 帥、貮となり、これより鎮西の豪族その

       家人となりて、その一族と称するもの多し。

51,源姓 − − 五島天文十五年の古碑に「源朝臣藤原安実(或は直か)」とぞ。

52,五島の藤原− −海東諸国記に「五島日島太守藤原朝臣盛」あり、その一字名なるより見れば、

       これも松浦党の人にて嵯峨源氏か。而して前項の如く藤原氏にして、源姓と称する人のあるより見れば、

       この藤原氏は、地名等より起こりたる苗字かと考えられる。その他 伝説に昔、花山院 家忠の五男

       玄城房尋覚、外族藤原是包の譲りを受け、青方の地を領すと云い、又 藤原先生義春など云う人もありたりと。

       又、武鑑、五島藩用人にこの氏を載せ、今もこの氏の人甚だ多く、また、二方領荒川村山王権現社々人に

       藤原氏あり、初代藤原源兵衛正道、二代 同 源太夫応行、三代同 源之亟正春、四代同 源之進正晴にして、

       家紋、丸に五三の桐、丸に藤。初代は鏡形位牌に阿南源兵衛正道とも載せ、摂津兵庫川尻より移住せり

       と伝えられる。最初代々源の文字を通称の一部に用いるを見れば、源姓藤原氏の一族にて、その伝説を

       事実とすれば、中興の人(恐らく阿南氏)、兵庫より移り、この氏をまねしものならん。

       その後の文書に藤原朝臣とある如きは、同名なれば、同姓と思い まねたに過ぎず。

53,源藤名字 − − 肥後の豪族にして、海東諸国記に「源藤為房、乙亥年、使いを遣わして来朝し、書して

       肥後州 藤原為房と称し、歳に一船を遣わす」とあり。日向国に源藤と云う地名あり。

54,他


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