片倉代々記・重綱(重長)の譜

上記にあるように、阿梅は 夏の陣時、乱取されたが 自分が誰の娘かを話さなかったので 重長は 幸村の娘とは 知らなかった、と云う事です。

「大阪落城の時(これ)をて」とは、保護ではなく、「戦利品として 得た」と言うことを意味します。即ち、乱取(略奪)です。その後、援助したのです。

又、阿梅が後妻になったのは 正妻(指月院『針生盛直の娘』)が亡くなった後、と、記されております(寛永3年没(1626年))。

即ち、重長は 喪中が終わった後、継妻としたものと思われます(早くても1628年前後)。


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