大河ドラマ 八重の桜

新島襄について⇒安中(今、群馬県)藩士 新島民治の長男。弁治の父を中島忠七という。新島家に養子に入ったものと思われる。

新島八重について⇒会津藩士 山本権八の三女。

系図

新島 弁治(安中藩士)─民治─敬幹( 襄)┐
                  │
                  ├子 無し
                  │

山本 直高(会津藩砲術師範)=権八─八重┘

* =は 系図では 養子を意味します。

* 実は襄には 実弟 雙六がいます。明治3年 安中の新島家を相続するも翌年 25歳で亡くなります。同4年、公義を

  植栗家から養子に迎えます。公義、大正13年没、63歳。

* 新島襄、明治23年1月23日没、47歳。

* 八重、昭和7年6月14日没、88歳。

* 民冶、明治20年没、81歳。

 

登場人物の関係図 ← 新人物往来社作成の会津歴史読本から。

 八重の最初の夫 川崎尚之助(しょうのすけ)は、天保7年(1836)に但馬国(今、兵庫県)出石藩士 川崎才兵衛の子として生まれた。
長じて後、江戸に出て蘭学、化学を学び、洋学者として知られたと云う。
慶応元年(1865)、八重と結婚します(尚之助29歳・八重21歳)。
会津戦争時、二人は 銃を取って戦いますが敗れて、下北半島の斗南(となみ)藩に移住しました。(後、廃藩置県で消滅)。
しかし、極寒で不毛の地ゆえに、仲間及び藩を救う為に外国米の取引を始めたが協力者の裏切りにより、外国人商人から訴えられて
訴訟継続中に東京医学校医院(今の東京大学病院)で肺炎の為死去しました。明治8年(1875、40歳)。

安政の大獄で斬首(29才)された吉田松陰の教え(格言)の一部。
「至誠にして動かざる(者)は、未だ之れ有らざるなり」は 孟子の言葉です(「至誠而不動者未之有也」)。
本意は「人の心を動かさ無い事が有るとすれば,それは 己が,誠の心を尽くして無いからである」
29才にして 神として祀られました(松蔭神社)。

困った時の会津頼み。(松平 会津藩の最初の藩主 保科正之は、2代将軍 徳川秀忠の落胤で、家光の弟になります。)

1800年代になると外国船が日本の周りを うろつくようになります。
文化3年(1806)から翌年にかけて ロシア船が蝦夷地を襲撃した。これに対して 会津藩が出兵し、樺太警備も行った。
又、文化7年から10年間、相模沿岸警備、弘化4年(1847)から7年間、房総海岸警備の任務を担った。
嘉永6年(1853) ペリー来航。
幕府は、川越・会津・忍の3藩に品川台場警衛を命じた。
海防には 金がかかります、忍藩は 増税して 予算を捻出しました。
尖閣諸島の警護も やり方によっては 莫大な金がかかるというものです。消費税・東北復興税の他に 更に増税が必要になるでしょう。
巡回する人々は 物を生産しないので 価値を生み出さず 費用負担のみが発生することになります。

さて、話は戻って、会津藩の江戸湾の品川第二砲台場の防備は 安政6年(1859)まで続いた。
これらの警備 防備で 各藩は 財政が急激に悪化しだします。会津藩も例外ではありませんでした。
そして 尊王攘夷運動が高まり、外国人が襲撃されるなどし、治安が悪化してくると、 京都御所及び京都市中の警備も必要になってきました。
本来なら京都に近い越前藩(家康の二男・秀康から始まる)や100万石の前田藩、或いは尾張、紀州の御三家がやるのが妥当なところですが、
どこも財政問題を抱えておりました。
文久2年(1862)、新たに設置された政事総裁職に越前藩の松平春嶽が就きます。
春嶽は 京都守護職の大役が 自藩に廻ってくるのを恐れ、若い会津藩主 松平容保に「おだて、哀願、おどしの手を使って」受諾させました。
家老の西郷頼母の就任辞退の懇願は 聞き入れられませんでした。
翌年、薩英戦争で 敗れた薩摩藩は 攘夷が かなわぬことを悟ります。
1866年には 薩長同盟が結ばれ、翌年、外国人嫌いの孝明天皇が亡くなり、同年10月、大政奉還へと時代は流れていきます。

話は少し前後しますが、公武合体の延長線上に浮上したのが、二条城を会議所とし、二日おきに参内して天皇の簾前にて朝議に参加すると云う参預会議であった。
メンバーは 徳川慶喜(一橋徳川家当主・将軍後見職)、松平慶永(春嶽・越前藩前藩主・前政事総裁職)、山内豊信(土佐藩前藩主)、伊達宗城(宇和島藩前藩主)、
松平容保(会津藩主・京都守護職)、島津久光(薩摩藩主島津茂久の父)の6人であった。
しかし、島津久光と一橋慶喜が横浜鎖港の件で 激しく対立した。
元々、島津は 13代将軍 家定に嫁した 篤姫を嫁に出した家であり、将軍家とは 蜜月の中であった。
吉宗から始まる紀州家の血筋の徳川宗家は 開国 開港に理解を示していたし、水戸の烈公を父に持つ慶喜も、元々は 根っからの開国論者であった為
島津久光の主張する開港維持に同調するはずなのだが、島津主導の朝議を警戒するあまり、横浜鎖港の件で 反対し、参預会議(文久3年(1863年)末から翌年3月)は
わずか 4ヶ月弱で瓦解してしまいます。これは公武合体の崩壊でもあります。
島津久光は 落胆のあまり 反幕に傾き、ちょうど同じ頃、西郷隆盛が遠島の罪を許されて、沖永良部島から薩摩に帰還しました。
そして、慶喜は 第二次 長州征伐を主導しながら、14代将軍が亡くなった事を理由に、突如、停戦してしまう。
ここが慶喜が 二心殿と呼ばれる所以です。
 やがて 薩摩は 倒幕へと変化していきます。

官軍は 錦の御旗を上げて 鳥羽伏見で勝利すると 一気に東征軍を押し出します。

官軍が あくまでも 慶喜の首を取ることにこだわれば 江戸での戦は 避けられなかったでしょう。

勝海舟と西郷隆盛の会談により 江戸が戦場にならずにすみました。慶喜は 上野のェ永寺にて 謹慎、後、駿府にて謹慎。

やがて 会津にも官軍が流れ込んできます。悲劇の始まりです。

西郷頼母の妻 千恵は、家族を集めて殉死の大義を説き、一族21人とともに自刃した。 やがて城内に大砲が打ち込まれ 多数の死傷者が出ます。
特に山川大蔵の妻 登勢は、城内に撃ち込まれる敵弾に水でぬらした着物などをかぶせて発火を防ぐ「焼玉押さえ」に失敗、砲弾が破裂し重傷を負い、
あまりのむごさに介錯する人もうろたえ、夫が到着しないうちに息を引き取る。

八重の父 権八は 「一ノ堰の戦い」で無念の討ち死にをする。白虎隊の悲劇は 皆の知るところです。

一方 官軍にも多数の犠牲者が出ます。

西郷隆盛の弟 吉二郎は、越後国五十嵐川付近(現在の新潟県三条市)で戦死します。


 西郷隆盛と西郷頼母とは 昔々は 同族です。その説明へ。家紋など古文書等から解説します。

著名な会津人

瓜生岩子【文政12年(1829)〜明治30年(1897)】
社会福祉事業の創始者の一人として生涯をささげた女性

遠藤敬止【嘉永4年(1851)〜明治37年(1904)】
私財を投じて 会津の誇り「鶴ヶ城」を救った大恩人

山川健次郎【安政元年(1854)〜昭和6年(1931)】
白虎隊士から東京大学総長へ栄進した会津の巨人

巌本嘉志子(若松賤子)【元治元年(1864)〜明治29年(1896)】
戦禍により孤児同然となりながら教育 翻訳者として大成した、名作「小公子」は有名。

柴五郎【安政6年(1859)〜昭和20年(1945)】
斗南藩にて飢餓を乗り越えた 福島県初の陸軍大将

山川捨松(大山捨松)【万延元年(1860)〜大正8年(1919)】
篭城戦の修羅場を生きぬき、後に大山巌と結婚し、女子英学塾(津田塾大学)の顧問等をし、側面から女子教育の発展に尽くす

野口清作(英世)【明治9年(1876)〜昭和3年(1928)】
細菌学の世界的権威となった偉大な医学博士、「志(こころざし)を得ざれば、再び この地を踏まず」は 有名。



 

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NHKエンタープライズの漢詩紀行100選には 間違い 及び不適切な部分が多くあり。 

 

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