南蛮鎧が 真田幸村(信繁)の物でない理由

① 幸村(信繁)は 身動きに支障をきたす南蛮鎧は 持たなかった。南蛮鎧を着ていては 槍を振り回せない。

② 南蛮鎧は 信長や家康のような殿さまが家臣に見せつけるものであり、幸村は大名にもなっていないので
   持っているはずがない。

③ 幽閉された高野山には 生きる為の日用品以外は 持ち込んでいなかった(家康の監視付きなので
   武具などは信州の真田本家に置いてきた)

④ 高野山での生活は 貧乏生活なので 高額な南蛮鎧等を買う余裕は ありませんでした。
  
「真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」には
   兄の信之に仕送りを頼んでいたことが記されている。

⑤ 大阪城には 武具は 豊富にあったが 冬の陣・夏の陣でも 軽い鎧を付けて馬にまたがって戦った。

⑥ 幸村を打ち取った 福井藩士 西尾仁左衛門が持ち帰った鎧は 軽い鎧で南蛮鎧ではなかった。

⑦ 幸村は 死んでおり、武具を どこにも運べていない。
  幸村使用の武具があるとすれば 信州の真田本家から出てくるはずだが 南蛮鎧は 本家からも出なかった。

⑧ 豊臣家の武具などは 大阪城が火の海になった為、燃え残ったものは全て徳川方が処分した。

 

以上、南蛮鎧等、幸村所用の物が あるはずがない、尚、大正生まれの子孫は 昭和の時代には
    仙台市内で 古物商を営んでいました。

 

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