熊本史学に発表された「菊池氏の起源について」(昭和34年・志方正和)

昭和34年に発表された 志方正和氏の「熊本史学」の中の「菊池氏の起源について」の件。
志方先生は 菊池氏の祖を藤原蔵則と断定していますが、蔵則が政則と同一人物と言う証拠はないのです。
仮に同一人物でも 僅か、一代遡るだけで その先は 全く不明です。
勿論、志方先生も 菊池則隆、或いは その父とされる政則は 藤原隆家の子ではない、と主張しています。
その部分は 正しいと思いますが、志方先生にも間違いがあると思われる部分があります。
それは「藤原盛規」と云う人の件です。
刀伊の入寇時、即ち、寛仁三年(1019)4月16日、大宰府の府官に「藤原盛規」が官位として 「少弐・従五位下」と記されております。
この資料は朝野群載(平安時代の古文書)ですから 正しいものと思います。
しかし、志方先生は 九州文化総合研究所より発行された謄写刷の「大宰府史料」に記されている「盛規」の盛は、誤写で「蔵則」の間違い、
としていますが、平安当時の古文書が「盛規」となっているのですから「盛」が正しいのは 言うまでも有りません。
又、志方先生は 刀伊 撃退による恩賞名簿に藤原政則、或いは蔵則の名前が無いことについては、
「督軍の地位にあった以上、先にしるした奮戦有功の将士の中に、彼の名の見えないことは 当然であって、しかも それらの人々が、
殆ど、前府官、或いは 下級官であることは 注目されて良い」と記しています。
しかし、同じ地位にいた「少弐で 平致行」は 戦功者の中に入っており、その部分も 間違いのように思います。
只、蔵則の名は 小右記や御堂関白記の中には 見えます。
結論として、藤原政則も蔵則も 大宰府の府官の名簿に無く、政則と蔵則が同一人物と言う証拠もありません。


さて、菊池氏初代の則隆については
姓氏家系大辞典を著した太田亮 大先生は、「菊池氏の菩提所 円通寺の縁起には 則隆を『鹿島大夫将監則隆』と載せたり。しからば、
「この人は肥前の鹿島の人にて 益々 高木、大村氏と同族なるを推すに足るべし」と。

 

 

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