「片倉氏に保護」は フィクション(作り話)である「乱取(略奪)」である。

 

上記をご覧になれば わかるように「保護説」或いは「乱取説」は ここから出ました

夏の陣の終盤、混乱の中を 城を抜け出した幸村の妻子ですが、阿梅は 母とはぐれたところで 略奪された。

いつの世も 戦乱時は 女は 餌食にされるのです。

どちらが正しいかは両方正しいのです。乱取されたが、正式に片倉重綱に嫁すに当たり、形式的に滝川一積の養女となって 嫁いだと云う事です。

養女と言うのは 実際に義理の父と生活していたとは 限りません。

真田信之の妻は 本多忠勝の娘 小松姫ですが、家康の養女として 真田家に嫁入りしています、徳川家で生活していた事は ありませんでした。

幕末の篤姫は 近衛 忠煕の養女となっているが 実際に鹿児島で生活していたのは 島津の分家、及び 本家である。

阿梅が片倉重長に嫁いだ後、その後、 妹 阿菖蒲も片倉定広(田村流)に嫁ぎました。片倉氏は 戦後、幸村の娘たちを応援しました。

一部諸書にあるように陣時、或いは 陣の直後に 幸村の子供達 男も含めて 5人保護は、真田の正史 及び片倉代々記など当時の古文書に載っていません。

逆に大八の死亡記事の古文書や阿梅が乱取された記録の古文書が有ります。

敵の大将の息子は 殺されると言う当時の時代背景を知らない人は保護説になってしまう。

5人の保護は 作り話ですが もし、そう言う事を当時行おうとすれば、 伊達政宗謀反の疑いをかけられ、振姫の嫁入り話も破談になり、

伊達藩のおとりつぶしに繋がる話です。そんな無謀なことを政宗が許可するはずも有りません。伊達は、半年前の冬の陣の功により、伊予宇和島 10万石を

家康から貰っており、 政宗の二男 忠宗に秀忠の養女・振姫を妻とする話が持ち上がっていた。(振姫の父は 池田輝政)

又、もし、この時、幼い男児がいても 足手まといになるばかりで 片倉氏にとって 何のメリットもないので 乱取は考えられないし、母親も一緒にいたはずである。

母親の竹林院は 別の所で 他の娘と捕縛されたことを考えれば、妻をほったらかして、阿梅一人の保護を幸村が片倉氏に頼む事はあり得ません。

尚、阿梅は 誰の娘かもわからずに乱取されたのである。(美人で役に立ちそうだから。役に立たない男児では見捨てるのが当時の慣習です)

もし、阿梅と一緒に乱取されていれば 幸村の息子と判明したところで 殺されたことでしょう。

そもそも 二男の真田大八は 既に亡くなっているので 母が捕らえられた時に 居ないのは当然です。 

尚、片倉守信が伊達藩士になったのは 1634(寬永11)年ですので、幕府が 諸大名に系図の提出命令を出したのは 1641年です。

寬永諸家系図伝がそれです。系図の調査があったので 真田大八が片倉守信と名を変えて 伊達藩に仕えたと云う説は 間違いです。

提出命令の前に 伊達藩士に取り立てられています。

そもそも、「大八が仙台に生き延びているのでは」と云う噂が出るはずがないのです。

夏の陣の直後に 幸村の妻 竹林院は 家康の前で 詮議を受けました。そして 男子がいない事が分り 許されたのです。

東照神君と なった神 家康の裁定を覆すことなど、老中といえども するはずがないのです。

又、幕府は 諸大名(殿様)の系図の調査は しても、藩士の調査はしません。ましてや 江戸から遠く離れた東北の藩士のことなど どうでもよいことでした。

それよりも 1637年に勃発した島原の乱のほうが大問題でした。幕府の命による九州諸藩による討伐も失敗に終り、翌年、老中 松平信綱の鎮圧軍により

やっと終結したのです。

そもそも 大八は 大阪の陣の前に夭折していますので 片倉守信とは別人です。守信は 幸村の子らしいことを何もしていません。

幸村の墓を建てたのは 娘の阿梅であり、京都の寺から母 竹林院の位牌を引き取ったのも 嫁に行った阿梅です。

本当に幸村の子であれば、壮年になった伊達藩士である守信が位牌を引き取ったはずです。

この点からも 明白に守信は 幸村の子ではありません

そもそも 江戸時代の初めから記されている 伊達世臣家譜には、「真田隠岐守信尹の子 政信、その子 沖允守信」と明記されていることなのです。


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