3月31日は 日本とアメリカの最初の条約である日米和親条約が結ばれた日です。

1854年3月31日(嘉永7年3月3日)

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殆どの国民が知らない事実を お伝えします。

私は深谷と申し 大目付 深谷盛房の子孫です。子孫に伝わる言い伝えと

東京大學が蔵する「幕末外国関係文書之二」の文書から案内します。

 

当条約は「黒船は追い返せ」と言う強硬論と「ペリーには話し合いで」と言う穏便論がある中で、

大目付深谷盛房(86)の穏便論を老中 阿部正弘(34)が採用した結果結ばれたのです

そもそも、老中阿部は条約前までは「外国船は 追い払え主義」でした。よって、ペリー来航の翌月の7月に

考えの近い 水戸の徳川斉昭(53)を海防参与として幕政に参加させました。

徳川斉昭は、「外国船は大砲を打ち込んで追い返せ」と強硬な攘夷論を主張するものですから

大目付 深谷は8月にペリーには穏便に行くよう阿部老中に上申書を出し 説得したのです。

深谷は大砲を打ち込んでアメリカと戦争になり、負けて、琉球か 蝦夷を取られたら、

それこそ「幕府の権威は地に落ちる」として、穏便策をとったのです。

10年程前にイギリスが しかけたアヘン戦争で 清国が香港を取られたことが 大目付には 伝わっていたからです。  

尚、当時 アメリカは 油を求めて鯨を取っており、水と食料、石炭等と休憩地求めておりました、また、貿易も求めておりました。 

 

 

よって、林大学の頭(カミ)を起用し、ペリーと話し合いをさせた結果、日米和親条約が結ばれたのです。

水と食料などの提供と、港は開くが貿易は拒否。

 

尚、深谷は京都の町奉行をしていた為に朝廷とも人脈があり、条約締結を知らせて終わりました。

 後の修好通商条約の時のように 天皇を巻き込んだ勅許問題は 起きませんでした。

また、87才で亡くなった大目付 深谷の死は 影響大なので しばらくの間 伏されました。

 

AIによる解説によると【大目付・深谷盛房は、まさに「日本の壊滅を防いだ知性派」としての功労者ですと。

尚、明治の製鉄文化の礎を作ったのも深谷盛房(当時は勘定奉行)です。

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1863年、大砲をイギリス船に打ち込んで戦争になり 負けた藩がありました。

薩摩藩です、薩英戦争の結果、賠償金も請求されました、薩摩が払わないので幕府が払った。


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