黒田官兵衛(大河ドラマ)

名字の その始は 宇多天皇(平安時代初期貞観9年(867) 承平元年(931))から始まります。天皇、名字無し、その後 源、佐々木、京極、黒田を称す。

佐々木系図(佐々木を称してから京極まで)に

  宇多天皇−敦實親王−雅信−扶義−成頼(近江国佐々木に住す)、その兄 経頼(参議)┐
    ┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
    └章経(式部卿、義経と改む)−高経(伊勢守)−高信(豊前守)−経方(近江守)−季定−秀義┐
    
     ┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
    
     └定綱−信綱−氏信−満信(京極

 

京極からを称すまでの系図

佐々木氏流(宇多源氏) 近江国伊香郡村より起こる。尊卑分脈に

  京極満信(左衛門尉、弘安卒)−黒田宗満┬高満(備前守)−満秀−高清
                    
  └宗信(出羽守)−高教(備前守)−高宗(備前守)

佐々木

  「京極満信宗氏、弟 宗満(四郎左衛門、正安三年八月二十五日出家)定宗(佐渡守)、弟 高満(判官代 備前守)
    
┌――――――――――――――――――――-――――-――――――――――――――――――――――――┘
     └宗信(出羽守)−高教(備前守)−高宗(備前守)、弟 高信(備前守)−清高(備前守、宝徳二年、改名 清信)−政光(四郎)」とあり。

 

又、系図に

  「近江国佐々木氏信の孫 宗満弘安の頃、伊香郡黒田村に住し、判官と称せらる。その七世孫 左近大夫高政、
   備前
邑久郡福岡村に移る。その子 下野守重隆、その子 美濃守職隆、播磨御着の城主 小寺氏を頼み、その家臣となる。その子 孝高なり」と。

*鎌倉 室町の時代間は 尊卑分脈と佐々木系図には 若干の違いがある。又、尊卑分脈、佐々木系図共に系図にある高政がいない。

伝記系図によれば 七世孫 は 高政となっているが 佐々木系図の七世孫 は、政光(四郎)となる(兄弟は 一つの世代)。

*どちらが正しいか、或いは どちらも微妙に違っているか、定かならず。尚、江戸時代初期のェ永年間に編纂された「ェ永諸家譜」には、高宗より重隆まで、
  「此の間中絶」とあり。
  家光の頃は 複数の大名が お家騒動などで 「お家取り潰し」「改易」されており、偽りの名字を幕府に出すことは考えられないので 正直に出されたと考えられる。
   正確なことは 官兵衛の祖父が重隆であることである。

官兵衛以後の名字は 以下の如し。

名字孝高(官兵衛・如水)−長政忠之−光之−綱政−宣政=継高=冶之=冶高=斎隆−斎清=長溥=長知−長成  筑前福岡 五十二万石 明治 侯爵、
家紋、藤巴、一藤巴。

*系図で「=」は 養子。


                                                                  (株)KADOKAWA 歴史読本 名字官兵衛よりの画像

 

 雑学

黒田官兵衛の妻 光の実家 櫛橋名字、及び 小寺氏、及び赤松名字の事。

赤松(村上源氏)は 室町時代後期は播磨の置塩城・龍野城を拠点とする有力守護大名であり、その先は 村上天皇に遡ります。

赤松政秀(置塩城主)は 赤松の支流です。その配下の将が小寺(御着城主)であり、櫛橋(志方城主)です、その後、櫛橋伊定は、

小寺政職の重臣となる。官兵衛の父も小寺政職の重臣となり、姫路城の城主となり、官兵衛が誕生します。その頃は 小寺は 赤松を凌ぐほどになり

赤松と一線を画すようになります。1500年代は 下克上の時代です。官兵衛と光との結婚は まさに政略結婚でした。

永禄11(1568)年、長男 松寿(後の長政)が生まれます。

翌年、赤松政秀の大軍が姫路を襲うも撃退します(青山の戦い)。その後、天正3(1575)年、官兵衛は 従属の為、岐阜に赴き、信長に謁見し、秀吉の臣下になる。

天正5年、御着城主 小寺政職が官兵衛の進言により信長に味方したことが毛利輝元に知れると、輝元は5千余りの軍勢を播磨の英賀海岸に上陸させ、
姫路城を攻めようとした。
自軍の10倍もの敵を知力によって撃退した官兵衛の戦いは 信長に伝わり、信長は 多いに喜び荒木村重を通じて感状を与えた。

天正5年頃の播磨の勢力図

 郡山城 予備知識

郡山と云う地名は 陸奥国(青森)から薩摩(鹿児島)に至るまで、16ヶ所あります。
城として有名なのは 福島県の郡山城、奈良県の大和郡山城、広島県の吉田郡山城です。
羽柴秀吉の頃の城主は 福島県のは 蘆名盛氏、奈良県のは 筒井順慶、広島のは 毛利輝元です。
テレビの官兵衛に出てくる郡山城は 広島(安芸国)の吉田郡山城です。(よしだこおりやま城)

 竹中半兵衛重治の件は以下です。

清和源氏 − − 美濃国の豪族にして、六郎左衛門重氏より系あり。

       その子 重元、その子は有名な半兵衛重治なり。

       ェ政系譜に「竹中遠江守重元−重治(半兵衛)−丹後守重門−重常−重高−重長−重栄−元敏−元儔」と。家紋 丸に九枚笹、黒餅。

新撰志に「重治の子 丹後守重門、七歳にして父の家を継ぐ。秀吉公に仕え、六千石を領し、慶長五年より神君に仕え奉る、云々」と。

菩提山城(ぼだいやまじょう)は 関が原の戦時、徳川家康(神君)に提供された。
竹中半兵衛の息子 重門は 菩提山の麓の岩出山(5000石・美濃国不破郡岩出山)に竹中館(今、岐阜県不破郡関ヶ原町)を築き、交代寄合になり、
幕末まで所領を安堵された。

 尼子の由来
京都の京極に住した京極高秀(明徳二年・1391年没)の子 高久、近江国犬上郡の尼子郷に住し、尼子を名乗る。
その後、孫の持久 永徳元年(1381年〜永享九年(1437年)、出雲に移る。

又、毛利元就の先祖は 鎌倉時代に遡ります。鎌倉幕府創設時、公文所の別当として活躍した大江広元(因幡守)の四男 季光、相模国愛甲郡の毛利庄に
住して 毛利四郎季光と名乗り、後年、関東評定衆・安芸守となる。その孫 時親、建武二年、安芸吉田郷の地頭職となる。
その系図

その後の 荒木村重
村重は 不利を悟ると有岡城を脱出してしまう(テレビでは毛利との単独説得となっているが)、残された
城兵は抵抗戦を続けたが、信長軍の滝川一益によって落城。
村重の妻 だし等 一族は、村重への見せしめとして 京都の六条河原で惨殺された。信長の死後、村重は
秀吉に仕え、千利休から茶道を学び、利休七哲の一人に挙げられた。天正四年、堺で没す。

その後の 別所長治
「三木の干殺し」と言われる 約2年間の三木城兵糧攻めの最中に官兵衛は 村重に幽閉された。長治は
城兵を助ける条件で、妻子 兄弟と自害して果てた、天正8年。
しかし、城兵は全員首をはねられたと云う説もあり。

その後の 高山右近
一時 荒木村重に同調するも、信長に「宗門断絶」と脅かされた宣教師らは秀吉と共に高槻城に赴き、
右近を説得、高槻城 開城。信長の死後は 秀吉に従い、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦いに参戦した。その後
天正13年、播磨国の船上城(6万石)を賜うも、秀吉がバテレン追放令を出したことにより
大名の地位を捨て領地を去った、その後、前田氏に匿われ、小田原攻め、関が原の戦いに参戦。その後
家康もキリスト教を禁じた為、国外追放になり、妻と百余人の教徒らと共にフィリピンのルソンに赴いた。
間もなく マニラで病没、慶長20年(1615)。

明智光秀のルーツ
源姓 土岐氏流では 一致するものの、尊卑分脈、土岐系図、明智系図等 皆、微妙に異なる。
特に明智系図も数流あり、光秀の父を光隆とする系図、光綱とする系図あり。その先祖の名前も同異あり。
よって、人名は略します。家紋、水色桔梗華。光秀の娘は 細川忠興の妻で「ガラシャ」也。
又、光秀の家老 斎藤利三の娘は 稲葉正成の後妻となるも、徳川家光が生まれると推されて乳母となる、
これ 春日局なり。

 備中高松城主 清水宗治は 切腹したが 子供は許され、後、毛利家に仕え、幕末、長州藩の家老 清水親春 出ると云う。

 7/13・20日の放映の場面でNHKらしからぬ場面がありました。
本能寺の変時。
あの家康が明智勢に囲まれたわけでもないのに「ここで切腹」は無いと思います。
家康は 若い頃は 今川義元の所に人質に出、その後は 信長の人質に出、そして、長男 信康を切腹させてまで 家を守った男です。
信長の訃報に際して 次は オレの番だと思ったのは 秀吉だけではないと思います。
又、毛利との和議の件も、何かおかしいと思うのは 私だけでしょうか。
有利に和議を成立させる為には 味方の主の死を隠さねば うまくいきません。
嘗て、蜀と魏の五丈原の戦いの最中に軍師 諸葛孔明は 亡くなりました。
死せる孔明 生ける仲達を走らす」と云う有名な言葉が残っております。
蜀軍は 軍師 孔明の死を伏せて 退却しました。退却した孔明の軍は 魏の軍を敗走させるのに成功させました。
日本では 武田信玄が家康・織田連合軍と戦っている最中に病死しました。武田氏は 信玄の死を3年間 伏せました。
信長の死を敵が知れば、播磨近辺の諸氏が再び毛利に寝返る恐れもあるし、毛利は 一斉攻撃に移るのが常套手段である。
明智光秀の謀反となれば 信長側が一枚岩ではないことの証明だからです。

 皆さん方は 秀吉の事を有名な天下人と 認識しているでしょうが 天正10年(1582)、信長が死んだ時は まだ、単なる信長の一兵卒であり
織田家の一番家老は 柴田勝家であり、信長の妹 お市の方が 嫁いでいるのです。
関白でもなければ 太閤秀吉でもないのです、羽柴秀吉でした。一方、毛利氏は 既に 毛利元就は 安芸守であり、官位も秀吉よりも上でした。
その毛利家の参謀である安国寺恵瓊が信長の死を知れば そんな簡単に黒田官兵衛と意気投合するはずが有りません。
秀吉に恭順するのは 翌年の賤ヶ岳の戦い(天正11年)以後のことです。
それが証拠に備中高松城の講和では、その講和の後に 信長の死を知った毛利の重臣は「講和を破棄して 秀吉軍を追撃すべし」との伝えも残っております。
城主 毛利輝元が信長の死を知って 講和を安国寺恵瓊にまかせていれば、「秀吉軍を追撃すべし」等と言うことが起こるはずが有りません。
敵の不利は 味方の利益なのです。これは 軍師の基本ですし、安国寺恵瓊が世の先を見通す力があれば 15年後に起きる関が原を見通すと云うものです。
そして そんなに官兵衛と恵瓊 及び 毛利氏が 意気投合していれば 黒田と毛利氏は 連携して 東軍に付いたはずです。
関が原戦後、恵瓊は 京都の六条河原にて斬首され、毛利氏は周防国・長門国(長州藩)に大減封されました。
毛利元就の時代には 安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見と、10カ国を領していたのである。
方や黒田氏は 52万石の大大名(福岡藩)になるのです。
備中高松城の講和に際して、NHKも 官兵衛を際立てる為に 安国寺恵瓊が官兵衛の提案に賛同したように放映していますが、家康の切腹と言い、官兵衛の策と言い、
ドラマを 面白くさせる為に 少し 勇み足があるようです。NHK も民放並みに 史実よりも、「おもしろければ良い」と云う体質に変化したのでしょうか。
黒田官兵衛を引き立てる為のセリフ、役回りにしたのでしょうが、その部分は 時代考証が少し おかしく思います。

 又、島津の九州攻めでは 吉川軍は 参戦を拒んでいるように放映されていましたが、既に3年前の天正10年には 元春は 息子の元長に家督を譲り、隠居しており、
吉川家の総大将として 元長は 秀吉に協力しております。勿論、毛利本家の毛利輝元も参戦しております。
尚、その前の四国攻めにも 毛利輝元、小早川隆景、吉川元長は 秀吉軍として 参戦しておます。毛利本家が参戦しているのに 吉川家が参戦しないわけが有りません。
只、吉川元春は 病を押して 九州征伐に参戦し、豊前の小倉城で 没した事は 事実です。

秀吉が天下を統一した後に 小早川家は 秀吉の養子 羽柴秀俊を養子に迎えて 小早川秀秋と名乗り、隆景の後を継ぎます、しかし、関が原では この秀秋が西軍を裏切ります。
家康は 秀秋に子がない事を理由に お家を断絶させます。吉川家は 以下のように家は続きます。 

吉川家の系図は ェ政系譜に

「元春−元長−弟、広家−広正−広喜−広猶−広達−経永=経倫−経忠−経賢−経礼−経章−経幹−経建」とあり。周防岩国六万石、明治 子爵

 宇都宮について。

 変わりゆく黒田家臣団

 文禄二年(1593)二月、再び朝鮮に渡る、七月、許可を得ずに帰国(病気説あり)し 秀吉の怒りをかう。この頃、剃髪して如水と号す。
如水とは 中国の老子の言葉にあり。

【関が原 関連情報】
秀吉政権下の五大老、家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、小早川隆景(後、上杉景勝)
五奉行、浅野長吉(長政)、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以。

家康は前田利家の子 利長を味方につけることに成功した、即ち、利家の妻・芳春院を人質として江戸に住まわせ、上杉討伐には 利長に
先鋒を命じた。又、利長の弟 利常(加賀藩三代目)は 二度の大阪の陣で活躍した。この事などにより、関が原の戦いでは 活躍しなかったが
加賀百万石は維持された。
一方 黒田家は 反 三成を明確にして 早くから徳川方になり、関が原後に豊前 17万石から福岡藩52万石となる。
黒田長政が賜った福岡は その前は 小早川隆景が秀吉より賜り、隆景没後、養子の秀秋(羽柴秀俊・秀吉の身内)が継いでいた。
秀秋は 戦いの最中に東軍に寝返った為、筑前国等37万石から岡山51万石に加増転封されたが、世継ぎ無しで、養子を認められなかった為、
秀秋没後に改易となり、家康の外孫 池田忠継が入った。


毛利藩は、112万石から37万石に大減封。
宇喜多秀家は 美作・備前 57万石 没収の上、八丈島に配流。
上杉家は、120万石から30万石へ大減封。関が原に引き返す東軍に襲い掛からなかった為、所領没収は免れた。
浅野長政は、東軍に属し、甲斐国府中21万5千石から紀伊国 和歌山37万石と常陸国 真壁5万石、計42万石を賜る。
石田三成は、近江佐和山19万石から所領没収、京の六条河原で斬首された。
増田長盛は、大和郡山22万石から改易となり、後、自害。
長束正家は、近江水口5万石から所領没収、切腹。
前田玄以は、丹波亀山5万石の所領安堵。関が原に参戦せず、朝廷とのパイプを持っていた為と云う。又、加賀百万石の前田家とは 玄以の6代前の親父は同じである。
即ち、一族である為、加賀公を通して家康に懇願した事も考えられる。

 

九州の関が原と東北の関が原

官兵衛は 豊後の大友氏と石垣原の戦いをしかけ、更には九州全土の天下を狙うことを宣言することにより、薩摩の島津氏を牽制させた。
息子が家康の養女と結婚したのも、九州の戦も、官兵衛と家康は 繋がっていたと考えるのが自然です。
即ち、大友氏は 西軍のメンバーとして九州に釘付け、島津は 小早川の寝返りを知るや、関が原を中央突破して
国へ帰らざるを得なくなった。本国の守りを優先させねばならなくなった為。

一方、東北では 家康は 最上義光、伊達政宗と談合し、慶長出羽合戦を促した。
これにより、上杉は 会津に釘付けとなる。関が原に戦力を割けば 背後を伊達、最上に突かれるからである。

三成の策以上に家康は 策を練りに練って 天下分け目の戦いを いどんだと言えましょう。

そもそもの原因は 大儀の無い朝鮮の戦を 仕掛けたことにより、出兵させられた大名は 多大な損害を出し、官兵衛も愛想をつかしたことによる。
出費ばかりで良い事が無ければ 天下人は 豊臣でも徳川でも良いのには 変わりはありませんから。

それにしても 誠に遺憾に思うのは、攻められた朝鮮の人々である。日本の犠牲以上に朝鮮の方々の犠牲は いかばかりであったであろうか。
今後は 二度とあってはならない事である。



NHK 大河ドラマ 黒田官兵衛へ

           

NHKエンタープライズの漢詩紀行100選には 間違い 及び不適切な部分が多くあり。 

又、ウイキペディアの西郷隆盛の系図は 明らかな間違いなり。 隆盛の始祖は 鎌足ではありません。

過去のNHK大河ドラマ

八重の桜

平清盛

坂本龍馬/ペリー来航

天地人・直江兼続

篤姫

風林火山

功名が辻

義経

新選組 

宮本武蔵

 利家と まつ

北條時宗

葵三代

元禄繚乱 



名字のトップに戻る