真田幸村は 寬永系図では 本家によって消された

真田幸村は 寬永系図では 本家によって消された

上記の画像は 幕府の正式な系図で、「寬永諸家系図伝」です。 寬永18(1641)年2月 幕府が提出を命じて約2年で完成(1643年)、若年寄・太田資宗(総裁)、林羅山等が中心になって作成。

即ち、寬永18(1641)年当時は まだ 信繁(幸村)の兄 信幸(1658年没)は、生きており、「本家の恥さらし」として 幸村は 系図から消されて 幕府に提出されました。

だから幸村は 載ってないのです。即ち、関が原の戦いでは 西軍に味方した幸村は、死刑となるところでした。

しかし、家康側についた信幸の助命嘆願で 一命を取りとめ、高野山 配流で おさまりました。ところが、その15年後に本家・分家の反対を押し切り、大阪方に加わりました。

本家の立場は まるつぶれです。

冬夏の陣の間には 家康の命により、叔父の信尹(信昌)は 幸村と会い、豊臣と縁を切れば 万石の大名にすると云う家康の案を持ちかけた。

しかし、幸村は 叔父さんの話も聞き入れずに夏の陣に突入してしまった。

本家 及び叔父(分家)として これほど不名誉なことがあろうか。兄 信幸としては まったく徳川家に対して 立場がなくなってしまった形です。

只、寬永時代になり、家康は勿論、秀忠も亡くなり、家光の時代になって久しい この頃、幸村は 武士、庶民の間で 人気が出てきだしました。

しかし、本家の面子に係わることなので、幸村の名前を消したのです。幕府が消したのでは有りません。

反対に前田家の場合は 関が原の戦いでは、前田利家の子 利長は 家康側に付いたが その弟 利政は 家康側に付かなかった事により

所領を没収されたが寬永系図には 前田本家が利政の名前を入れて 幕府に提出したので 載っているのです。

本家が削除したのに 幕府側で 付け足したもので無い事が分かります。

1800年頃の寛政重修諸家譜では 幸村は 復活しました。


前のページに戻る

真田丸の最初に戻る

名字の最初に戻る