NHK 大河ドラマ「真田丸」

  12/11日放映の場面のデタラメ

 

夏の陣の終盤場面で「伊達政宗の前に幸村の家族(阿梅大八)が保護された」シーンが ありました。

歴史書による史実では 「幸村の妻子が保護された事実はありません」。大八は 夭折しています

妻の竹林院と 女児は 九度山に向かう途中で 家康の命令で 浅野氏によって捕縛された事が

超有名な人の息子が書いた当時の歴史書書かれております(1598年~1680年の史実を記した玉露叢)

伊達政宗に保護されていないから 七女 おかね等と京都で一緒に暮らし、没後、龍安寺に安置された位牌を

白石城主の後妻になった阿梅が引き取って、今、当信寺に安置されているのです。

娘の阿梅だけが 政宗の重臣 片倉小十郎によって、略奪され、江戸を経由して仙台に連れて行かれ

数年後に小十郎重長の後妻に入ったのが 真実です。その後、娘たちは援助されました。

尚、NHK仙台局は 幸村の子孫と称する方の「言い伝え、家系図等を吟味して対応しているのか」

ヒストリアもデタラメで 再放送を中止する有り様(鳥越さんの件)。

幸村の子に関する言い伝えは史実に合わないところが多く、紙の系図1枚伝わっていないのに、布の采配、長い鑓等、不自然と思わないのでしょうか。
火事で消失すれば 布まで 燃えます。仙台真田氏の秘宝は ニセ物であり、子孫 そのものがニセ者です。
今回、幸村の妻子保護のシーンは 「ニセ者幇助の疑い有り」です。幸村使用の物が年々、追加されていっています。

NHK仙台放送局が協力しているページ。

「『真田幸村の系譜 直系子孫が語る四〇〇年』/河出書房新社」と言う本もNHKは紹介しているのです。

デタラメの放映が ニセの南蛮鎧の有料展示とか、「幸村の真実」と言うデタラメが多い 本の出版に繋がるのです。

 こんな事が許されて良いのか

伊達政宗との密約」の件は、既に1年前にデタラメと立証しました。無かったのです。

保護の事を時代考証の一人である K・丸島さんに私の友人が以下のように問いただしました。

「だいぶ前にお世話になった者です。

先ほど 真田丸を見て 驚きました。
伊達政宗の陣に幸村の妻、梅、大八が保護された場面です。
これは 史実とだいぶ違うのでは。
先生は 「真田四代と信繁」と云う本の中で「梅は乱取され」、妻の竹林院は 九度山に向かう途中で「浅野氏に捕えられた」と記しました。
他の諸書 及び 古文書等(真田の正史)にも その二点は 先生と同じに なっています。
又、片倉代々記には「娘は 誰の娘か わからなかった」と記されており、政宗が保護したのであれば その時点で 幸村の娘と わかることになります。
NHKは たまに デタラメをやりますが、時代考証の三人は 「その政宗 保護」の場面を どうとらえているのでしょうか。
問題は 三谷さんにあるのか 何なのでしょうか。
以上、回答願います」と。

丸島さんの回答は 以下です。

「二度と質問をしてくるなと申し上げましたし、ドラマの作劇につきましては、ご回答の必要を認めません。NHKに質問してください」と。

先生と、崇めている上記メールの文面からすれば 丸島さんが怒る理由がありません。
これは 秋に小生がメールで依頼した事を怠った為か、或いは 時代考証役としての意見が通せなかった為と 思われます。

税金で運営されている国文学研究資料館の職員の態度・対応とも 思えません。

尚、丸島さんには 秋 9月5日には メールで 大八が 保護された場面は作らないように伝えて置きました。

NHKもNHKです。こんなデタラメを放映するとは あきれるばかりです。

これが事実と放映されると 仙台の幸村の子孫と称する者が 益々、気を良くして 幸村のニセの南蛮鎧とか鑓等を

有料展示する事になります。年を追うごとに幸村の武具が増えているのです。南蛮鎧がニセ物の理由

幸村の子孫と称する者の家譜及び言い伝えは 殆どが史実と違っているので 当てになりません。

国民は ニセ物を見せられている事を何と感じているのでしょうか。尚、NHKは ニセ者幇助になります。

これでは 「金を払ってまで 見る気がなくなるのは 私だけでしょうか」。

今、NHKの然るべき人と 連絡を取るべく、動いているところです。

 

12/12日、メールに対する回答が 未だ、無いので、早速、フリーダイヤル(0570-066-066)で
「該当場面は史実と違うので その場面にした理由を問いました。
当然、電話に出た女性が即答出来るわけではないので、担当部所に聞いてもらって 何人か から得た情報は
フィクションで 作り話なので ご理解下さい」と言う返事でした。

「公共放送であるNHKも ここまでやらないと 視聴率が落ちるのか」と云う思いです。
実は 念のために 担当宛に「妻子保護の場面は作らないよう」メールで 要請しておきました。(11/21日)
12/5日には プロデューサー屋敷陽太郎殿にも 保護場面は 作らないようにメールしました。
受け取りの自動メールは 返って来ましたが その2通に関して 該当者からは 何の連絡もありません。
よって、手づるで 正式な見解を得るべく 動いています。12/13日。

12/13日、NHK近くに用があったので NHKに立ち寄り、保護シーンの事を質問しました。

対応された松崎氏 曰く 「 ドラマ自体がフィクションで作り話」との事。大河ドラマは 真実を放映する「歴史秘話ヒストリアとは違う」との事。

小生の指摘は 「プロデューサーの屋敷陽太郎に伝え、メールも返信するよう伝える」と云う返事を得て NHKを後にしました。

小生は、加藤清正の死の原因については 古文書にも無く、不明なので どのような作り話にしようと構いませんが、真田の正史に記されている

事実と 全く違うことを 放映することは 公共放送たるNHKが する事ではないと存じます。

何の為に時代考証を3人も置いているのか、意味がないのでは ?

NHKを後にした後に会ったバンクーバー在住の50年来の友人も大河ドラマを「カナダで 見ている」と言っていました。

「NHKで 放映されたことは 事実と 受け止める、よって、フィクションならその場面は【作り話】と文字が画面に流れるものと解釈している」との事でした。

12/15日の日経新聞に次回のドラマ「井伊直虎は、男だった」と云う記事が流れました。

これは京都に有る井伊美術館(井伊氏の子孫が館長で 戦国時代から幕末までの資料が豊富)が発表したものである。

役者も「女城主から男の城主に変えるのか」が注目を集めるところですが、NHKとしては 「ドラマは フィクション」とのこと。

しかし まあ ドラマ スタートの直前の発表でもあり、直虎が実在しなかったわけではないので その辺は やむをえないところではないでしょうか。

しかし、小生が問題にしているのは 専門家の間では 50年も前から 分っていた事実であり、死んでいる大八を生きているとし、妻の竹林院は 家康の手の者に

捕えられているのに 「政宗に保護された」と云う史実とは全く反対の事を放映することは けしからん と、思っています。

史実と違う放映は 学生の誤った歴史知識の蓄積になり、社会科の試験で落ちる生徒を出すことにもなる。

そのデタラメにより 真田の正史や片倉代々記や伊達世臣家譜、仙台叢書などの貴重な古文書が間違っていると思わせるに至っている。
これは大問題です

そうなることを予想する両親は 大河を見ないことに繋がり 視聴率の低下に繋がると云うものです。

12月下旬、民放テレビに出た、三谷 幸喜さんは、「真田丸は 史実にのっとり放映した」と、発言しました。

その発言からすると、三谷さんは、史実を把握していないのか、古文書(古文漢文)を理解する能力に欠けるのか、どちらか、と云う事になります。

日経新聞に載ったので その日本経済新聞に勤めていた 友人に 大河ドラマを見ているか聞いたところ、だいぶ前は 見ていたが 「今は見ていない」との事。

理由を聞いたら「デタラメのところがあり つまらないから」との事でした。

以上、問題のシーンの結論は、NHKは 間違った説でも諸説の中にあれば 面白くする為に採用すると云う事が分りました。

尚、真実を放映する「歴史秘話ヒストリア」でも 鳥越俊太郎氏の件では デタラメを放映し 再放送を中止した事は 皆の知るところです。

それに比べて、幸村の娘 阿梅が眠っている墓を管理している白石市の教育委員会立派です。

従来 大八の墓としてきた墓石の案内の看板を2,016年に修正しました。画像も拡大できますので 内容を確認して下さい。

片倉守信が大八でない理由をご覧になれば納得いくものと思われます。

尚、この保護を否定する説明が真田丸の時代考証役の一人である黒田さんは 以下のように記しています(但し、一部ミスあり)。

実際には、竹林院は、数人の子供と ともに、大坂落城後に同城を脱出するも、19日に紀伊国の浅野氏に捕縛されています」と。

 

 

 

真田氏のルーツ

信濃国小縣郡の真田(今 長村)より起り、海野氏より出づ。

       昌幸の子は信幸(伊豆守 徳川に仕う)、幸村(大阪討死)

       寬政系譜、武鑑などに、

              海野小太郎広道-幸親-幸広-幸氏-長氏(右衛門尉)┬茂氏(信濃守)-左衛門尉幸直┐
                                └幸春(真田七郎)      │
         ┌―――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
         └頼幸-則幸-善幸-幸房-幸義-憲広-持幸(信濃守)-氏幸-幸棟(信濃守)┐
         ┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
         └棟綱(信濃守)┬幸義
                 └幸隆(真田弾正忠、信州真田に住し、武田晴信に属し甲州に来る)┐
           ┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
           └┬信綱(長篠
戦死)
            └昌幸(安房守)┬信幸(信之、伊豆守)-信政-幸道(伊豆守)-信弘-信安┐
                    └幸村-幸昌(大阪の陣、父と共に討死)         │
           ┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘
           └幸弘=幸伝=幸貫(信濃守)=幸教(信濃守)=幸民(信濃守、信濃松代
十万石
                                                          
       家紋 六連銭 洲浜 雁金、明治 伯爵)。

 

*実は 幸村は 本名は 信繁、父 昌幸が豊臣秀吉に帰属すると秀吉の近習となり、大谷吉継の娘を妻とします。

 これも関ヶ原で 大谷が石田三成に組みし時、大坂方の主要メンバーになる要因でもあります。

尚、兄の信幸は 徳川四天王の一人 本田忠勝の娘を妻とした為、徳川方になります。

 

* 戦国時代の 真田幸村一族の系図、     真田幸村の兄弟の系図

元亀・天正の中頃は まさに時代は 目まぐるしく変わっております。
人質を取るのは 当たり前の時代であり、政略結婚も 頻繁に行われた時代でした。
家康は 北条家に次女・督姫を氏直に嫁がせて、北条と提携関係にあります。
上杉家の分家・深谷上杉家は 上杉氏憲の正室として氏政の養女を迎えており、北条一派となっております。
その10年前は 本家の上杉謙信に従って 謙信の関東管領就任時には、10万の兵力で小田原城を囲み、川中島では武田信玄と
戦っております。謙信の晩年、深谷の町は 謙信によって焼き払われた事などにより、本家・分家の仲が完全に切れました。
又、北条家は 謙信の養子として、三郎氏秀(景虎)を送り込んでおります。しかし、同じ養子の景勝により、殺されます。

  「関東の雄 北条氏に関して」
関東の雄は 奈良 平安時代は 特に無く、鎌倉時代になり 源頼朝が 鎌倉に幕府を開いたことにより、各地に守護 地頭を
置いて 治めたので、部分的、一時的には源氏であり、執権の 北条氏でした。南北朝時代も足利、武田、千葉、宇都宮氏等の守護が
群雄割拠している状態でした。
室町時代になると幕府の命で 鎌倉府が置かれ、鎌倉公方の補佐役である関東執事が守護達に下知していたが、やがて
上杉憲顕(1306~1368年)が幕府の職責の一つとして 関東管領に就任した。その後代々上杉氏の世襲になった。
足利冶乱記に「上杉、東国の大名を集め、京都将軍家の三管領 四職に準じ、関東にもその沙汰あるべしとて、鎌倉殿を押して、将軍と崇め
上杉を以って管領として、千葉、小山、長沼、結城、佐竹、小田、宇都宮、那須を以って関東の八家と号し、大となく、小となく、
この八家の面々 評して、上杉を以って決定主とす」とあり。
尚、室町前期は、上杉の関東管領館は 鎌倉にあり、憲顕の子 関東管領 憲方の菩提寺は 名月院です。
室町中期は 鎌倉の西 小田原城も上杉の家臣の大森 藤頼の城でした。
室町中後期に伊勢新九郎盛時(北条早雲)なる男が出てきまして、当初は 伊豆に勢力を張っていたのですが、1496年頃
小田原城を奪い取りました。尚、この北条氏は、鎌倉時代の執権の北条氏とは 全く別です。よって、後北条と呼ばれたり 小田原北条と言います。
又、1512年には 鎌倉は 早雲によって奪われました。
その後、その子 氏綱によって 江戸城も奪われ、その子 氏康によって、川越城、そして、群馬県の平井城も奪われました。
その平井城は 関東管領 上杉憲政(謙信の養父、1523~1579年)の居城でした。
甲陽軍鑑に「山内上杉は、上州平井に居城し、相模、武蔵、下総、安房、常陸、出羽、陸奥、下野、越後、佐渡、信濃、飛騨、上野の
十三ヶ国の諸侍、平井へ出仕す」とあり。

北条氏は 上杉の一族争い、或いは 鎌倉府と室町幕府との争い等の隙を突いて 領土を広げ、秀吉の小田原征伐まで 約 100年間 小田原城の主でした。

 真田昌幸、信幸・信繁(幸村)の年譜へ

 幕府の正式な寬永系図寛政系図仙台の真田系図(片倉流真田氏であって 幸村の子孫ではない・近年作られたもの)

 

 方広寺の鐘に記された「国家安康君臣豊楽」について

      漢文の意味としては 「国家が安らかで異変の無い事」であり、後者は「君主も臣下も 物が豊かで 人民が楽しむこと」である。

よって、本来なら 言いがかりが つけられないほど立派な文言です。家康が いかに豊臣家に難くせをつけて 戦に持ち込もうとしていたことかが わかります。

30年ほど前、家康は 小牧長久手の戦いでは 秀吉に勝ち、娘が北条氏直に嫁いでいるので 北条とは戦をしたくなかった。

しかし、秀吉の都合で 北条征伐の要にされ、終わったとたんに、関東に左遷させられた。家康は 耐えに耐えた。

豊臣秀頼及び淀君が 一大名として、耐えに耐えていれば、大阪の陣は無く 歴史が変わっていたかもしれません。

幸村も 淀君を説得するとか 手を尽くし、 参戦しなければ 秀頼も あきらめて 徳川の軍門に下ったかもしれません。

勿論、参戦しなければ 少年 大助を死に追いやることは なかったはずです。

 

11/6日の放映で、兄 信之が 幸村の大阪方参加を 積極的な容認態度とも取れる発言がありましたが、はたして それは「本当だったのだろうか」と

疑う場面がありました。本当は 兄 信之は 腹の中が煮えくり返っていたものと思います。

何故ならば、関が原の戦後処理では、親父と幸村は 切腹させられるところでした。 それを何としてでも避けるべく、嫁の実家である本多忠勝に懇願してもらって、

九度山蟄居と云う形で 一命を取り留めました。幸村に大阪方に加わられたのでは 兄 信之は 本家としての立場がなくなってしまった形です。

家康に対して 合わせる顔が無かったことでしょう。

大阪方参加を容認をしなかった根拠としては 寬永系図(寬永諸家系図伝)では 幸村は 消されて幕府に提出されました。

本家としては 「徳川家にとっての大罪人を系図に載せるわけには行かぬ」と判断したものと思います。

それらの状況証拠により 兄 信之は 容認どころか 反対したものと思われます

 

夏の陣時 「幸村の子(男子を含めて5人)が 伊達の重臣 片倉小十郎に保護され、仙台に生き延びた」と云うのは 間違いです。

阿梅だけが 乱取(略奪)されて、やがて、片倉重綱の後妻になりました。この事は 仙台叢書及び片倉氏の正史 片倉代々記に書かれております。

よって、誰でも書き込めるネットの辞書 ウイキペディア 及び 他のサイト、最近の書物、全て 間違っています。

宮城県 及び 仙台市、白石市の教育委員会の責任者に確認すれば 確認できるものと思います。

 

 

 

    仙台の真田氏は 、幸村の叔父さん・信尹の子孫です。  真田幸村(信繁)の子孫では有りません。
日本家系図学界の会長でもあった丹羽 基二氏の著書 「新編 姓氏家系辞書(2001年、秋田書店)」にも
「幸村の系統は絶えた」と記されています。
尚、以下のサイトに 幸村の二男 眞田大八は 亡くなっており、片倉守信とは 別人の証拠が
真田家の歴史書である・正史『真田家御事蹟稿』、当時の事を記した「片倉代々記」、当時の事を記した「仙台叢書」等に記されております。

幸村の「5人の子供達を保護」と記している全ての最近の本、サイトは 間違いです。それらの古文書を見ずに書いたと云う事です。

又、蔵王町にある 明治になって建てられた真田の墓も 間違った言い伝えにより 彫られたものであることが理解できるものと思います。
なにしろ 250年後に建てられたものですから。


NHK 大河ドラマ 真田丸

NHKエンタープライズの漢詩紀行100選には 間違い 及び不適切な部分が多くあり。 

又、ウイキペディアの西郷隆盛の系図は 明らかな間違いなり。 隆盛の始祖は 鎌足ではありません。

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黒田官兵衛

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坂本龍馬/ペリー来航

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