片倉守信が真田大八でない理由

 

① 従来 「片倉守信の墓を真田大八」としていた間違った看板を2,016年秋に白石市の教育委員会が訂正しました
  そもそも 大正14年に出版された白石町誌を見ると、「当信寺には 大八の墓があるとは 伝わっていなかった事がわかる(江戸時代から大正時代まで)」。
   昭和8年に出版された仙台人名大辞書に記された「真田の項のデタラメ」から徐々に そのデタラメが浸透して行って 昭和55年の円柱の案内に至ったものである。
  結論としては、昭和 平成の時代に片倉守信=真田大八としていたことが明らかな間違いで、全くの別人である事が分る。
  この事は「守信を大八としてきた仙台の子孫と称する方の説が明らかな間違い」と言う事です。

②  真田家の正史『真田家御事蹟稿』のうち、信繁(幸村)の伝記である『左衛門佐君伝記稿』」では、真田大八は 夭折と記されている事。
   又、玉露叢(1598年~1681年迄の記録書)にも「真田大八は京都にて早世」と記されている事。

  お寺と言うところは 檀家が葬式をやる事のみにより、過去帳に死亡日など必要事項を記入します。噂をもとにして の過去帳の記入は絶対に有りません
  実際に亡くなったので記録されたと言うことです。
  この事は 仏の教えが 千数百年変わらないように寺院の決まりごとも変わっておりません。
  噂で過去帳に記せば 気にくわぬ人は 皆、噂で死んでしまうことになり、お寺の権威が保てなくなります。
  よって、蓮華定院の報告書通り、真田大八は 大阪の陣の前に亡くなっています。 
   噂を信じた蓮華定院が過去帳に記録し、その記録が真田の正史に記録されたと云う説明は成り立たないということです。
  どなたが言ったのか、記述された本があるのか、わかりませんが、高野山の名刹 蓮華定院及び松代藩の真田家正史の権威を落とす行為になります。
  尚、「実は仙台に生き延びた」と、記してある本は「仙台人名大辞書」を参考に記されたものであり、2,016年、真田丸で研究が進み、その大辞書の
  真田の項はデタラメが判明しております。  もし、大八が夏の陣の時まで 存命であっても、母親と一緒に居らず、徳川にとっての大罪人の幸村の子では
  食事もできず、幸村の息子と云う事が分れば殺される時代でした。秀頼の幼い子、長曾我部の子も首をはねられました
  そう言う状況の中で、阿梅が片倉重綱の後妻に入るまでの8年間 どうやって 生き永らえたのか。
「仙台に生きた」と云うのなら その証拠が必要です
  
大八は 早世しているので その証拠があるはずがありません。

③ 当時の阿梅、当信寺の住職、及び守信の子(辰信)の対応が「守信を幸村の子として扱っていなかった」事。
   A― 母 竹林院が亡くなった(1649年)後、阿梅は 守信を弟と思っていなかったから嫁に行った阿梅が位牌を引き取った。
       (この頃は 幸村は人気が出ていて 幸村の子と云う事を隠す必要がない)

   B― 守信が亡くなった時(1670年)、阿梅は 守信を弟と思っていなかったから、守信の位牌を作らなかった。
      結果として、平成の今現在、両親の位牌が当信寺にあるのです。

   C― 片倉辰信は、守信を幸村の子と思っていなかったから、守信の墓石に「片倉四郎兵衛守信」と彫ったのです。
      そして 墓石を片倉一族の周りに作り、阿梅の墓とは 離れたところに設置した。(片倉家の四男として分家した証拠)

   D― 当信寺の当時の住職は 守信と阿梅が「弟と姉の関係ではなく、全くの他人」と思っていたので、阿梅が亡くなった時(1681年)、
      阿梅だけの位牌を作り、両親の位牌と一緒に並べた。 

 

④  幸村の子孫と称する人には江戸時代初・中期の古文書の記載は何も無く、言い伝えだけであり、その言い伝えの殆どが史実と異なっている事。
   A― 幸村の男の子 真田大八が保護された事実は無い事。
       敵の大将の男子を含めて 5人の保護は 謀反に匹敵します。そんなことを家康に黙って出来るわけもないし、伊達の重臣がするはずもありません。
       仙台の真田さんの言い伝え「5人の保護」は 間違って伝えられた事が、真田氏の正史及び片倉代々記 及び仙台叢書により判明しました。
     真実は 阿梅だけが乱取り(略奪)されました。

      B―「幸村の二男 大八は 大阪夏の陣の際にや姉と一緒に京都に隠れていた」と伝わっている件は 全くのデタラメである事。
     大八は 夏の陣の前に亡くなっているし、母の竹林院は 大阪城を脱出した後、間もなく家康の捜査によって捕縛されたことが
     当時の歴史書である玉露叢に書かれております。

   C乱取された阿梅が片倉重綱(重長)の後妻になった年月も間違って伝わっている。言い伝えは1620年(17才)ですが本当は1628年頃、即ち
       25才位です。正妻がいるのに後妻を貰うはずが有りません。正妻は 1626年に亡くなっております。よって、一周忌の後に後妻になっているはずです。
       これも片倉代々記では ハッキリと 前妻がなくなった後、と記されております。他家の言い伝えより白石城主の歴史書が正しいのは言うまでもありません。

  D―幸村の遺命により、西村孫之進(景国)・吾妻佐渡が幸村二男の真田大八等を白石まで 護衛したと伝わっている件
     西村孫之進が 護衛して送り届けたのであれば、その時点で 真田幸村の娘である事が 分かることになります。
       しかし、片倉代々記には「誰の女なるか知らず」と、記されています。  要するに護送されたと云う言い伝えは 間違いです。
     保護を秘密にする必要があれば 保護した事 自体を隠す必要があります。護衛したとする伝説があるはずがない

    以上のように間違った言い伝えによると、250年後の明治5年墓石(真田幸清筆子塚碑文)も間違って彫られてしまうと云う事です。
    彫った人は 真田の正史、片倉代々記、仙台叢書などの当時の書物を見てないので間違ってしまった。
    夏の陣時、娘1人が略奪された事が片倉代々記、及び 真田の正史に記載されている。
  男の幼児では 足手まといになるだけで略奪する価値も無いので、真田大八の略奪も無かった。
    よって、仙台に居た片倉守信は もともと仙台の人である。当然 大八ではなく 別人である。尚、娘は 数年後に幸村の娘と判明した。
    幸村が保護を頼むはずも無いが、頼んだとしたら妻と他の子も頼むはずである。
    その他の江戸時代の公な古文書には 真田大八が大阪の陣後に 生きていたと云う記録は無い事。そもそも保護などするはずがない事。
    伊達謀反の疑いをかけられてまで 保護する理由が無い。江戸時代に記された仙台叢書に娘を連れ帰った事が記されています。

  言い伝えが こんなに違うと云う事は 幸村の子孫と称する方は 幸村の子孫でないと言う事です。又、言い伝えが無かったとも言えます。
    平成になって、「子供5人の保護」を記している本があるが それは作り話であり、「保護」と記している本は 間違いである。ウイキペディア等のサイトも間違いです。

 

⑤  大阪の陣後、家康は 幸村の妻子の捜索を命じた、すぐに妻 竹林院と女子が見つけ出され 京都の家康に引き渡された時、 真田大八は 居なかった。
   満3歳の幼児では 当然 母親と一緒に居るはずである。既に大阪方から寝返った片桐などから妻子の人数などの情報を得ていた家康が
   それ以上の捜査を命じなかったのは 真田大八は 既に死亡していたと云う確認が取れたからである。
   神君家康が詮議をして 許されたことを後になって 外様大名の藩士の事で幕府が「幸村の子ではないか」と咎めることは老中といえども しません
   「幕臣として 採用する」と言うのなら厳しいことを言う幕閣も出ることは考えられる。しかし、そもそも大八は亡くなっているのである。

 守信が幸村の息子なら、父 幸村の墓を建てているはずである。
   守信が伊達家に仕えた頃(1640年)は 既に秀忠も亡くなり、家光の時代になっており、姉妹たちが次ぎ次ぎと有名な武将の所に嫁に行った後ですので
   既に幕府も真田アレルギーも消えております。   嫁に行った先のが幸村の供養塔を建てているわけですから。

   しかも、守信は 伊達家の家臣であり、伊達家には秀忠の養女が嫁に行っていて、幕府は 嫁入り先の伊達藩に その程度の事で文句を言うはずも有りません。
   夏の陣が終わった年、幕府は 一国一城の令を出したが伊達藩の白石城だけは特別に例外扱いにしたことでも伊達を信頼していた事が分かる。

   京都の龍安寺(幸村の娘 おかねの嫁ぎ先の夫は 石川貞清)、田村家墓所(宮城県白石市)等に幸村の墓がある。
   又、慶安元年(1648)、三女 阿梅(おうめ)は、幸村の菩提所として月心院を建立したし、白石城下の当信寺に両親の位牌を安置しました。
   なのに、江戸から遠く 監視の行き届かない仙台にもかかわらず、守信は 墓を建ててない、
   又、当然、守信が幸村の子であれば、阿梅の近くに居て連絡も取りあえていたのだから、既に壮年になっている男の守信が位牌等を引き継いだはずです。
   嫁に行った阿梅にさせるはずはありません

   当時、阿梅は 守信を 竹林院の子とは 思ってなかったから自分が母親の位牌を龍安寺から引き取ったのです。
   「阿梅の母 竹林院が亡くなり(1649年)、京都の名刹 龍安寺に葬られた事を知った阿梅が、両親の位牌を当信寺に安置したと寺の記録にあります」と。
   即ち、守信は 幸村の子ではない。  http://okadasekizai.co.jp/jiin/jiin15.html
  又、当信寺にある位牌は、幸村夫妻及び阿梅の位牌は並んでいるが、守信のが無いのは 10年前に亡くなった守信を阿梅が弟と思っていなかったから
  位牌を作らなかったし、阿梅が亡くなった後は阿梅の縁者或いは 住職が守信は幸村の子と言う認識が無いから阿梅だけのを作り守信の位牌は作らなかったのです。

⑦  守信は 白石の月心院の檀家になっていない。
  月心院は 阿梅が父 幸村、母 竹林院の菩提を弔う為に 1648(慶安元)年に建てたお寺です。
  守信が幸村の子であれば 当然、守信は 檀家として 、それも筆頭檀家として 親父の菩提を弔ったはずです。
  守信は 約10年も前に立派な伊達藩士となっている、それなのに 檀家にもならず 月心院に無関心だったと云う事は 幸村の息子ではないと云う事です。
  尚、既に 20年も前に幸村は人気者になり、真田の名を隠す必要も無くなっており 堂々と幸村の息子を表明できた頃である。
  又、息子なら当然、阿梅 及び辰信は 守信の墓を当信寺ではなくて、月心院に建てて、親子で 並んだ墓石にしたはずである。
  明治になって廃寺になることを予想しているはずもないので。
  又、江戸時代の初めの人が自分は 真田幸村の子孫と云う認識があれば それが代々伝わり、阿梅が建てた月心院が廃寺になる時に寺と連絡を取って
    幸村の位牌を引き取っているはずです。引き取っていない、だから本寺 傑山寺に移されたわけです。
    江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは 何も無く、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので
    明治5年の墓には、幸村10世 真田源田左衛門滋野幸清と刻んだと云う事です。
    真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史等が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えたという事です。
    そして、大正、昭和の時代になり 真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び つじつまを合わせざるを得なくなり
    真田大八 死亡の噂を流した、とか、系図の偽装(叔父の子孫)とか、明治から昭和生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と、言い出したと云う事です。
    その証拠に系図の真田の真の字の上の冠部分を十にしている事です。明治・江戸時代の人は カタカナのヒ、即ち「」を使ったのです。
  新字のを使っていると云う事は、昭和以降に書かれた系図と云う事です。
  尚、叔父の子に正信は 居ました。

⑧  当信寺にある墓も証明しています。
     姉が当信寺に眠っているので 弟が 同じ寺に葬られたのではありません。
  守信のほうが10年前に亡くなっています、守信は 片倉一族の分家の四男と言う縁で、当信寺に葬られたのです。
  その証拠に「片倉四郎兵衛」と墓石に刻まれています。
  大八は 幸村の二男です。   真田二郎なのです。即ち、同人ではないと云う事です。
    初めて墓を作る場合は お寺を決める必要があります。当時は 当然の事ながら大八の縁者で眠っている人はいない。
  何故ならば真田は信州の人であり、紀州、摂津で生活をしていたし、 阿梅は まだ生きており、葬られていない時代です。
  親父である幸村のお寺にするか、そうでない新たなお寺にするか、と云う事になります。
  守信が大八なら当然 月心院に葬られるのが ふさわしいのです。
  一方、当信寺は 創建当時は 白石城主の片倉一族 縁の寺でした。その支族の片倉家の四男の守信が葬られるのは不思議な事ではありません。
  もし、守信が大八なら、阿梅及び辰信は、幸村が眠る月心院に墓を作り葬ったことでしょう。
  結果として、守信は 当信寺に葬られました。この事により、明白に守信は 「幸村の子ではない」と言うことです。
  尚、当初の守信の墓は 片倉一族の墓近辺に有り、阿梅の墓とは 別々の所にあったのです。(昭和の後半に墓の整理で 並立された)
  守信が弟の大八でないので 阿梅の墓は 離れたところに葬られたのです。
  
  昭和の後半になって 阿梅と守信の墓石が隣どうし に されたのは 何故か。
  昭和の住職などの「兄弟仲良く」と言う気持ちの表れから来ています。   (昭和の住職などが間違った情報を信じた為)
  しかし、350年前の住職などに そう言う気持ちがなかったのかと言う事になると、その気持ちは昔も同じだったはずです。
  それでは 「昔の当時、どうして 隣どうしにしなかったのか」と言う事になります。
  それは 当時の住職も阿梅も「守信は 弟でない」と 認識していたからです。
  ですから 守信は 阿梅の墓とは 別の所にあったのです。片倉一族の分家として 葬られたということです。
  阿梅 及び守信の家族は 守信が幸村の子でない事を知っていたので、慣習に従って 別々にした と言う事です。
  当然、幸村の寺である月心院に埋葬されるわけがありません。幸村の子であれば 阿梅が親子仲良く 並べたことでしょう。
  この墓石の経緯からしても 守信は 幸村の子ではありません
  尚、当信寺は 白石城主一族の縁の寺ですので、阿梅の墓が当信寺にあることは当然の事です。
  大正時代までは まだ真田の正史や片倉代々記が公開されていなかったので 真田大八、死亡の事実が伝わっておらず、
  講談本によるフィクションにより 守信の子孫等が「大八」と間違えてしまったのです。
  尚、守信が真田大八なら、守信が亡くなったのは1670年ですので、その20年以上も前に幕府からすれば大罪人の幸村の墓が建てられるようになっており、
  ましてや、息子なら 真田二郎兵衛守信、或いは 片倉(真田)守信と 真田の痕跡を墓石に彫ったはずです。人は臨終に際して 真実を語るものです。
  秀忠は とっくに亡くなり 家光の時代も過ぎ、家綱の時代なので、真田を名乗れなかったとは これまたウソです。
  守信が大八なら、幸村の寺(月心院)を作るのを許された1648年頃、片倉から真田に名字を復しているはずです。幕末に復したと云うのは説明がつきません。
  江戸時代は 真田と片倉では 東北地方では 家格は 数段 片倉の方が上でした。真田氏でないので片倉氏で通したのです。
  尚、片倉守信の墓に「一つ銭」紋が付いていますが、白石城主 片倉小十郎も 当時は真田を誇りにし、 六文銭の服装をしていたので、不思議な事では有りません。
  この「一つ銭」紋で 幸村の子とは断定できません。 そもそも、真田大八は 早世しているので 当信寺にある墓石は 別人であり、まさに片倉守信 なのです。

⑨ 真田の正史 『真田家御事蹟稿』には 真田の本家で、松代三代藩主の幸道(1657~1727)が伊達家の家臣の中に
  六連銭の紋を付けた人に 疑問を持ったことが記されています。
     そして、その後、藩主の幸道が江戸屋敷に訪ねてきた六連銭の紋を付けた片倉沖之進と会った時に、沖之進の口から
     「私は幸村の孫と云う言葉」が出れば 幸村のの事が記されているように 疑問どころか、もっと驚くべき事なので、
     幸村の息子の事も記されるはずである。即ち、『真田家御事蹟稿』には 息子・孫と言う文字も無ければ守信の文字も無い
     当然、寛政系図(1800年前後)にも記されて然るべきであると云うことです。
     記されてないということは 沖之進は 幸村の孫ではないと言う事であり、守信は幸村の子ではないと言うことです。 

⑩  家系の専門家が著した家系辞書では 幸村の「男系の子は 絶えている」と記されていること。
  1994年に出た 角川の宮城県姓氏家系大辞典は 相当な専門家が調べて発行された辞典です。

  その辞典には 片倉守信の事は 何も記されてないし、真田幸清の項に わずかに「幸村の子孫と称する」に留めていて 「子孫なり」とは なっていない。。
  当然 当時の専門家は 当時の真田氏の当主と話をしたものと思います。 しかし、不明な点があった為、断定しなかったものと思われます。
  また、当然 その専門家は 昭和の初めに出された仙台人名大辞書も見ているはずであり、

  そのフィクション性を感知して、その内容を採用しなかったものと思われます。立川文庫の講談本で、大正のベストセラー 「智謀真田幸村」を読んだ
    文豪 幸田露伴は「こうデタラメだと、いっそう おもしろい」と述べた。
    その直後に出版された、「仙台人名大辞書」の真田の項は デタラメが記されている事が判明しました。

  勿論、1934年~1976年に複数回出た、姓氏家系大辞典の著者 太田亮先生(家系の専門家で 歴史学者)も仙台の真田氏は 省いています。
    また、日本家系図学界の会長でもあった丹羽 基二氏の著書 「新編 姓氏家系辞書(2001年、秋田書店)」にも「幸村の系統絶えた」と記されています。
   

真田の正史では 「大八は死んでいて」、「守信は幸村の息子らしいことをしていなく、守信が大八でない理由が たくさんある」のでは
  守信を大八と決め付けることは明らかな間違いです。

片倉守信が真田大八であるかのように信じられてしまった理由(推測)

①幸村は、天保年間に出た講談本『真田三代記実記』など、それ以降に出された様々な講談本により、
  幸村人気になり、フィションが作られた。
  そして、幕末の子孫が墓石に 銭紋が付いているのを見て、幸村の子孫と錯覚した。そして幕末から真田も称すようになった。
   仙台・白石に居たのでは 長野の真田本家の正史を見る機会がなく、片倉小十郎などが 銭紋を使用したことを知らなかったと云う事です。
② 明治になり、正式に真田を名乗ることになり、墓石も彫り、益々、幸村の子孫である事とし、納得するようになった。
③納得したものだから大正時代から昭和にかけて作成された仙台人名大辞書にも 講談本からの知識、幕末の先祖の言い伝えを 反映させた。
    しかし、幸村の子孫を称するに当たり、真田家の正史『真田家御事蹟稿』等には 大八の死亡説が記されているので、「京都で噂を流した」とか
   偽装系図とか、5人の保護説を出して、 つじつまを合わせざるを得なくなった。
④戦前及び戦後の幸村人気に乗って、様々な本が仙台人名大辞書を元に出版され、平成に至った。
⑤平成時代になり 様々な本を読んだ読者が 疑いなく その内容を信じた。
  (面白おかしく、幸村の真実等と書くと本は売れる)。一部の歴史家は、フィクションを肯定した方が本が売れるので真実の追究を止めた。
  ネットのサイトもそれらの本を元に記事が書かれたので 皆 同じような内容になった。

尚、仙台人名大辞書の著者 菊田定郷は、明治元年の生まれで 小学校卒業後、陸軍の仙台鎮台に勤務したり、宮城県の本願寺の教務所職員をしたり、
     宮城県音楽講習所で資格を取得するなど、さまざまな職種に興味をもち挑戦しているが、永続性がなかったと云う(仙臺郷土研究会)、
     その後、東北毎日新聞社や奥羽新聞社で記者生活を送ったり、古書籍業を経営したり、仙台市会議員になったり、仙台市史編纂委員になった人。
     歴史学者でもなければ、国文学の学者でも有りません。
     新聞記者を経験していることから情報集めは うまかったものと思いますが、真田幸村に関しては 江戸時代から講談物が出回った事から
     フィクションなのか、史実なのかの区別が出来なかったものと思われる。勿論、宮城県から外に出たことも無い人なので
     信州に本家のある真田氏の正史は 見ることが出来ませんでした。
     よって、その大辞書には 誤りが載ることになります。
尚、勿論、小生 藤原は、真田氏関係以外の記事は 全て正しい、正確であると信じています。(真田氏関係以外は 目を通しておりません)。

 

幸村のような有名な人は 意外なところから真実が出てくる場合が多いです。様々な古文書、及び当時の状況証拠から守信は 真田大八ではありません
     真実でない場合、つじつまあわせをすると益々 別の部分で矛盾が発生します。  

* 定期的に宮城県の蔵王町で 仙台真田のイベントが開かれていて 当主も出席しているので 展示されている
  真田幸村使用の南蛮鎧の件も話しが聞けるものと思います。それが本物なら大正 昭和の頃に家族と一緒に写っている白黒写真があるはずです。

* 真田幸村の子孫と称する方の言い伝えは 史実と合わない事が多い。
    それにもかかわらず、子孫と称する方は「真田幸村の真実」とか「真田幸村の系譜 直系子孫が語る四〇〇年」等の本を出版しました。
    この事は 「由緒ある蓮華定院の記録」或いは 「真田本家の正史」及び「片倉代々記」等の歴史書の記録が間違っていると誤認させる事に繋がります
    国民の皆様は こんな事があって良いと お思いでしょうか


真田丸の最初に戻る 

名字の最初に戻る