真田幸村(信繁)の南蛮鎧の件

ニセ者がニセ物を有料展示していることを皆さん 許せますか。

幸村使用の南蛮鎧など 始からない事が分かる。蔵王町大阪の大丸のイベント等で展示された南蛮鎧の具足が あるのなら

下のリンクされているページの絵の本人の脇に 古いが 同じ大きさの南蛮鎧の具足があるはずです。

自慢の南蛮鎧が無かったから真田喜平太は そのような具足を身に着けたわけです。
平成になって 平成の子孫が 某ところから幸村に関係のない鎧を手に入れただけの事です。

http://www.dokitan.com/sanada/story/05/index.html

当然 そんなに立派なものがあるのなら、75年前 親父が出征した時に無事の祈りをこめて写真を撮るとか、

現在の当主が5歳になった祝いに写真を撮るとか、しているはずです(七五三の祝い)。

現在の当主の側に居る方は 一度 お尋ねになったら如何ですか。

当然 自慢の鎧なので 喜んで見せてくれることと思います。

以下は宮城県蔵王町のホームページの解説です。

「 仙台真田氏に伝来する「幸村公所用具足」を身に付け、「幸村公所用(死持)采配を手にした喜平太の油彩画です。
明治初頭に同ポーズで撮影した写真があり、それをもとに描かれたものです」と。

 

南蛮鎧が偽物(幸村使用の物でない)である理由

①南蛮鎧のような重くて 身動きに支障をきたす鎧は 馬にまたがり、実戦を重んじる幸村が持たないこと。
②国主にも 殿様にもなっていない幸村が持っているはずが無い事。信長や家康のような殿様が飾ったり、陣中で采配を振るう人が身につける物である。
③大阪城に置いておいた鎧は焼けてしまっている事。
④道明寺の戦いで戦死した時着ていた実戦用の鎧は、討ち取った西尾仁左衛門が福井県の西尾家の菩提寺「孝顕寺」に首と共に埋めた事。
⑤真田家の正史には 15年暮らしていた九度山には 何も残さず 大阪城に入ったことが記されているので 九度山にも残していない。
⑦幸村等は 戦死して 持ち帰っていないので あるはずもない。
⑧帰るところが無くなった、生き残った女 子供では 、そんな重い鎧を 車の無い時代に仙台まで運べるわけもない。
⑨そんな宝が有るのなら真田喜平太肖像の絵に描かれているはず、しかし、脇にも無ければ身につけてもいない。
  采配より鎧のほうが宝なのに喜平太肖像画の鎧が 何故ないのか。幸村使用のものでないので明治になって ボロボロなので 捨てられた。
⑩今、大阪城に展示されている物は 南蛮鎧でなく、実戦用の軽い鎧で、真田本家に残して来たものである。南蛮鎧は 本家にも無い事。
⑪幸村の子孫と称する方が各地で展示した南蛮鎧は 400年の古さが無い。倉庫にしまいっきりなら腐っているはず。
⑫ 「幸村の兄弟 従兄弟などの協力者が居ない中、そんな重い鎧をどのように、何処の場所から、誰が仙台に運んだか等」、子孫と称する当人が 説明できなかったこと。
⑫2016年6月29日、幸村の子孫と称する方に 成人式 或いは 幼い頃に一緒に撮った写真があるかを尋ねたら、返答も無く、逃げ回っていること。
⑬以下で説明できる


平成25年・2013年6/8~9/1、長野の池波に貸し出した、その画像、同じ平成25年、蔵王町で4/21~6/30まで 展示、真田さんは 最低でも 2つの鎧を持っている事になる。

この画像では 上下の鎧は 違う。又、こう言う鎧も持っている。蔵王町では 平成21年から仙台真田氏の歴史講演会をやっているが まだ この時は 鎧の展示は無かった。
25年から突然 南蛮鎧が出てきました。24年は これだけ。更には 古さを強調する為に このような鎧も一時持った。

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