徳川実記(台徳院伝御実紀)

 

 

以上のように 2年に亘り 豊臣秀頼の捜査を命じた。

大阪城は 炎上し 遺体も 焼けて 断定できなかったからである。

それ程 豊臣の消滅の確認にこだわったのです。

ですから もし、幸村の息子が居たとしたら斬首は 免れません。

徳川は 親子二代に渡って 真田の親子二代に辛酸を味わせられた。

仙台の真田さんが主張している事は史実に合っていません。

もし、間違って 阿梅と一緒に乱取されていれば その男の子が 幸村の子と言うことになれば 伊達政宗は 処分を命じたはずです。

その前に片倉氏が処分したことでしょう。殿に責任が及ぶからです。

伊達謀反の疑いをかけられ 藩の取り潰しになるからです。しかし、実際には 大八は 大阪の陣の前に夭折していたので

伊達藩としては無事に将軍の養女・振り姫との婚儀が 行われたということです。

尚、阿梅は 保護されたのではなく、略奪されたのですが これを乱取とも言いますが

「幸村との内密で保護」説が間違っている理由は、保護なら他の子供と妻の保護も頼んだはずです。

そして 乱取の証拠として 当時の記録書、即ち、仙台叢書には、 乱取したので 「阿梅が幸村の子だと言うことは わからなかった、

後でわかった」と記されていることです。

ですから 夏の陣時の5人の保護は 間違いです。妻の竹林院も保護されたと記していることも間違いです。竹林院は捕縛されました

尚、宝島社発行の「真田幸村の真実」で記されている「幸村の娘たちの保護の裏には 幸村と片倉・伊達政宗との密約」があったのだ、

と記されている。

即ち「幸村が家康を亡き者にしてくれるなら幸村の子供達を引き取り育てよう」と。

この記事も 全く当を得ていない。大阪の陣の前の10年前には 既に将軍は 秀忠になっている、家康が死んでも 徳川の時代が

終わるわけではなく、伊達の天下が来るわけでもないのに そんな密約を伊達政宗がするわけが有りません。

寧ろ 伊達は 徳川との共存を強く願っていた。そして、陣後 間もなく家康は この世を去った。何も変化は無かった。

当然である、そして、予定通り 振姫が伊達家に嫁いだ。

又、阿梅が片倉重長の後妻になった時期も片倉代々記には 正妻が亡くなった後、阿梅が後妻になったとあります。

だいたい正妻がいるのに 後妻を貰うはずが有りません(側室なら別です)

しかも、正妻が亡くなって 1年間は 喪に服すので 重長が阿梅を継妻とするのは 早くても 1628年前後です。

仙台の真田さんの説を諸書、殆どのサイトが信じて 採用している結果、間違った内容になっているということです。

即ち、1620年の再婚は 間違いです。


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