花燃ゆ

松蔭の妹 文子が嫁いだ楫取 素彦 関係系図

素彦は1829年(文政12)3月15日、萩藩の藩医 松島瑞蟠(ズイバン)の二男として誕生す。幼名は久米次郎。

1830年、杉寅之助(後の吉田松陰)、杉家5代目当主 百合之助 常道の子として誕生す。

1834年、寅之助、叔父で山鹿流兵学師範である吉田大助の養子となり、大次郎矩方と名乗る。

1839年(天保10) 寿子(矩方の妹)誕生す。5年後に文子 誕生す。

1840年、素彦、明倫館 儒官の小田村 吉平の養嗣子となり 小田村伊之助と改む。

1853年、素彦、寿子と結婚す。

1857年(安政4)、久坂玄瑞と文子 結婚す。

1859年、吉田寅次郎(松蔭)、伝馬町の牢で処刑される(29才)。

 

小田村伊之助と吉田寅次郎の詳しい年譜

 

ペリー来航時、 寅次郎は 「アメリカへの密航を企てた」としている説は、間違いである。
実際には 「勝敗を度外視しても、ペリー艦隊に乗り込んで 日本刀の切れ味を見せてやりたい」と、素朴な感情を露呈し、佐久間象山から諌められている事からしても
寅次郎は 外国と和親を結ぶ気を持っていなかった事が分かる。そして、江戸及び長州の獄に入れられる。

安政元年の晩秋(1854年、24才)、野山獄にて 寅次郎「幽囚録」を記す、以下はその一部。まさに猛士なり。孟子では 有りません。

「今 急に武備を修め、艦略を具え、礟略足らし、則ち 宜しく蝦夷を開墾して諸侯を封建し、
間(すき)に乗じて加摸察加(カムチャッカ)・隩都加(オホーツク)を奪ひ、琉球に諭し、朝覲會同し 比して(親しんで)内諸侯とし、朝鮮を責めて
質を納れ 貢を奉ること 古の盛時の如くならしめ、北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宋(ルソン)の諸島を収め、漸に進取の勢を示すべし。
然る後に民を愛し 士を養ひ、守邊を愼みて、固く 則ち 善く國を保つと謂うべし」と。

又、その後、獄中で回顧録など多数の記録を記す。獄中生活は約、1年2ヶ月。
回顧録とは、安政2年(1855年)、1854年3月3日から下田渡海の挙を経て野山獄に送られる(10/24)迄を回顧して日記風に書かれたもの。
最後に「吉田寅次郎藤原矩方誌す」と記されている。

*寅次郎の吉田氏は 本姓は 藤原氏の為、そのように記したものです。

勅許の件

室町3代将軍 足利義満は 明の建文帝から日本国王と認められ、勘合貿易をやりました。
又、江戸時代にも 初期の頃から将軍が許可を出すことで 貿易が行われました。
例えば オランダとの貿易は 1609年に家康が許可を出しており、又、二代将軍 秀忠が肥前の平戸で貿易をするように許可を出しております。
外国との貿易は その時代の政権の専権行為であり、武士の時代には 天皇の勅許を必要としません。
日米和親条約も幕府が結んだ後、朝廷に連絡されました。只、幕府が弱体化した 14代将軍 徳川 家茂の頃には 反対派を抑える為に
朝廷の賛同も得ようと勅許を 出してもらうよう老中 堀田 正睦は上洛したが孝明天皇は これを拒否した。(安政5年3月11日、孝明天皇が
九条尚忠の上奏を受け入れ外交は 幕府に委任するすることを裁可する。しかし、その後、他の公卿の巻き返しにより 心変わりした)。 

 世界の光を見たい人が 何故 開国をした老中を襲う計画をしたのか。
「老中 間部詮勝要撃計画を実行しようと萩に残る塾生に声をかけ要撃隊をつくり、藩には武器・弾薬の提供を願い出て、藩を驚かせた」と云う寅次郎。
寅次郎は 安政の大獄の犠牲者と言う事になっていますが 冷静に当時の事を考えると、どうもそれは違うのではないかと思います。
ペリー船に乗り込み海外に渡航を企てただけでも 当時の法を犯した、即ち、「国禁を犯した」と言う事で断罪される時代でした。
ましてや、時の政府の要人を殺そう等と言うことになれば 今度は二度目の大罪です。門下生は 「斬首は やむをえない」と思ったことでしょう。
勿論、樽の中に裸で詰められた、散切り頭を見れば 言葉も出なかったことでしょうが。
約20年前に乱を起こした大塩平八郎は 斬首を見越して自刃しました。
8代将軍の吉宗の時代でも 同じ事であれば 斬首だったと思います。たまたま安政の時代であったので、大獄の犠牲者にしてしまっただけではないでしょうか。
確かに伊藤博文のように 門下生も ほんの数人おり、 明治になって 寅次郎の教えが影響している人は いるでしょうが。
NHKは 文の夫 小田村伊之助を もっと褒めるべきと思います。 伊之助こそが 幕末、明治の偉人と言えるでしょう。
それと文久3年(1863年)に英国へ密航した井上馨(寅次郎の塾生ではない)等の5人(井上馨・伊藤博文・遠藤謹助・山尾庸三・井上勝)が
新しい考え方を身につけて 多いに活躍したと捉えるのが妥当に思います。勿論、桂小五郎等も入りますが。 

 3/29日の放送で コレラがはやり、この病気が 「長崎での外国人との付き合いにより、流行した」ように放映されたが、日米通商修好条約が結ばれ
長崎が開港されたのは1859年である。即ち、寅次郎等が攘夷を叫び始めた後に開港された。
よって、コレラは 日米通商修好条約のせいではないことがわかる。
日米通商修好条約は 一部不平等な所もあったが、「日本とヨーロッパの国の間に問題が生じたときは、米国大統領がこれを仲裁する」と言う
日本にとっては 安心できる条約でもあったのです。イギリス、フランス、ロシアは 虎視眈々と植民地政策を推し進めていた時代でした。
日本が かたくなに攘夷を推し進めていたら 香港の二の舞は 明らかでした。
文久元年(1861 )に、 ロシア軍艦による対馬占領事件がありました。日露和親条約(1854年)が結ばれていたのにもかかわらずである。 

 NHKが放送の中で、寅次郎が「倒幕」を口にした場面があったが、これは 少し早すぎる時代考証です。
まだ 井伊大老が実権を握っている頃は 幕府の力は 絶大で 倒幕など考えている人は いなかったでしょう。
藩が画策しているとなれば その藩は 断絶になる時代です。
居たとすれば 混乱に乗じて 弱いものから略奪 悪事を働こうとする無頼の輩でしょう。
勿論、長州藩士が藩を超えて 「日本国の為に」と 言っているのも 違和感のあるセリフです。
なのにテレビでは 倒幕等のセリフが入っている、 どこか変です。
寅次郎が 開国派で 諸外国と組んで進んだ武器を手に入れて、倒幕なら、先見性のある立派な学者と言えるでしょうが
やっている事は その反対の外国人排斥、即ち、攘夷です。
倒幕の場面は 10年近く後の事です。
即ち、1864(元治元年)年、四国連合艦隊(英、仏、米、蘭) 下関砲撃事件で 長州は破れ、武器の差がありすぎて とても「攘夷は 出来ぬ」と
悟った後です。島津も英国と 薩英戦争(1863年)をしかけ、敗れた。寅次郎は 5年も前に亡くなっています。
寅次郎は 明治になって 神と祀られた人なので それにふさわしい演出構成をNHKは したのでしょうが、だいぶ無理があります。
高杉晋作・久坂玄瑞・飯田正伯・尾寺新之丞・中谷正亮が連署して寅次郎に義挙のを告げている事を考えると
寅次郎は 猛士ではなく、時代感覚を誤った、士では ないかと思います。
尚、久坂 玄瑞は、寅次郎が刑死した後、尊王攘夷運動の先頭に立つようになる。
尊王は良いが 攘夷は 正しかったのかと言う事でもあります。
尚、安政の大獄の一番最初の犠牲者は 近藤 茂左衛門である、でも 結果として彼は命を奪われること無く 明治12年(1879年、80才)まで生き延びました。
寅次郎の「当時の政府の要人暗殺計画」は 現在で言えば テロ的行為に匹敵するでしょう。
何と言っても立派なのは 伊之助でしょう。

 寅次郎が死の直前に書いた留魂録は、全部で十六章あり、その最後に【思い残すことは無い、「君を崇めて夷(エビス)払へよ」】と記されており
生前、寅次郎が記した書物の中には 倒幕の言葉も無いし、「開国して国を富ます」等とも言っていない。有るのは 異人排斥である。
寅次郎の死後、久坂 玄瑞などが攘夷運動に のめり込んでいく事は 国民の知るところです。
寅次郎の教えを実行して 攘夷を決行した結果は 惨めな敗戦であった。
そして 高杉の長州藩の採った政策は イギリスから大量の武器、軍艦を買う(薩摩藩名義)という結果になった。寅次郎の遺言の攘夷とは 真逆である。

徳川には 任せられぬ、幕府打倒の声が上がるのは 第一次長州征伐の結果、家老など貴重な人材を失い、幕府に恨みを持つようになってからである。
倒幕は 寅次郎効果ではない。時の政府の要人である老中襲撃計画に対して 門下生に止められていることを考えると寅次郎の死と云う不本意な結果は、
「やむを得ない」と思った方は たくさんいたことでしょう。
確かに寅次郎は 儒学、朱子学に通じた学問上は立派な先生ではあるが、寅次郎の十数年間の行動を冷静に捉えた時に どうして こう言う若者が
神と崇められるようになったのか、不思議でならない。教育者であれば 「法は法として 遵守すべき」と云う考えになるのが普通ではないか。

 寅次郎と 同じ頃生まれた人で、日米和親条約、日米通商修好条約の平和的締結に向け、陰ながら助言や進言をし、操船や英語を教え、
アメリカの文化、世界情勢を語り、坂本龍馬、後藤象二郎、福沢諭吉らに大きな影響を与え、開国の立役者となり、
明治維新後も 政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の教授となり多くの若者を育てた、中浜万次郎の方が よっぽど幕末 明治に
貢献したものと思います。

その 明治時代、列強の植民地政策、帝国主義の時代の流れの中で、日本も富国強兵を推し進めるのに寅次郎を神と崇めて、幽囚録にある
「朝鮮を責め、北は満洲の地を割き、南は台湾・呂宋諸島を収め」が大陸進出政策に必要だったものと結論付けられる。

しかし、今は、「国際協調 及び アジアの中でどう生きるか」の時代である、戦後の日本は 変わったのだからNHKは その辺を良く考えて放送すべきである。
一貫して 小田村伊之助、桂小五郎などを もっと 取り上げるべきであったし、とりあげるべきである。

 寅次郎の伝馬町での取り調べの場面に テレビでは 井伊大老が出ていたが これは視聴率を上げる為のサービスです。
実際の取り調べは 三奉行(寺社奉行・松平伯耆守宗秀、勘定奉行・池田播磨守頼方、町奉行・石谷因幡守穆清)が行いました。
寅次郎の遺書 留魂録にも この3人の名前が記されています。
罪人が大名であれば 老中や若年寄も同席する時もありますが 下級武士の時に大老が御出座など ありえません。
尚、諸書 或いは ネットのページで 留魂録に 「安政の大獄」と言う文字が入っているページがあるが これも事実に基づいていません。
留魂録の原紙には
11章
「小林は鷹司家の諸太夫にて、此の度 遠島の罪科に処せらる」。

13章
「余 此の回 新たに得る所の人なるを以って」と、なっており、 「此の度、此の回」を「安政の大獄」と当てはめてしまったものです。
尚、寅次郎の老中襲撃計画に対しては、寅次郎が 江戸に送られる前に門下生の入江杉蔵が「死」の文字を贈った事が記されているが
当時の知人の間では「死」は やむをえない事として 受け入れられていた事から判断すれば 寅次郎が「安政の大獄」の犠牲者とするのは
無理があるものと思います。

尚、取り調べに勘定奉行が出るのは 変、と思う方もいらっしゃるので付記します。

勘定奉行と言うのは、江戸時代の中後期からは職務は2つに分かれ、金庫番である「勝手方」の勘定奉行と、もめ事を裁く「公事方」の勘定奉行が居た。
池田頼方は 公事方の為 取り調べに当たったものである。職務は全く別なのは それ以前は、 もともと財政、民生、訴訟などを勘定奉行が担当していた為である。

 

 猛士 寅次郎の遺書・留魂録の「君を崇めて夷(エビス)払へよ」を実行した事件は 以下です。

文久2年(1862)12月12日、高杉晋作・久坂玄瑞・山尾庸三・伊藤俊輔ら13名の長州藩士が御殿山に建設中の英国公使館を焼き打ちする。
(英国公使館焼き討ち事件)
又、同年12月21日、 長州藩士・伊藤俊輔、山尾庸三らにより、国学者・塙次郎(塙保己一の4男)、及び歌人・加藤甲次郎が暗殺されております、江戸九段坂にて。
理由は 「天皇を廃せし例を調査せしを以て也(老中・安藤信正の依頼によると云う)」。(天皇制の廃止ではなく 開国に理解を示す天皇に変える事の可能性の調査)

井伊直弼も やり過ぎたが 寅次郎の門下生も やり過ぎではないでしょうか。

テレビでは 長州藩が諸藩に先駆けて攘夷を実行したかのよう放映していましたが実際には 遅いほうです。
2年も前の1860年12月5日、 米国公使館通訳・ヒュ―スケン、芝赤羽のオイレンブルク居館からの帰途、薩摩藩の伊牟田尚平らにより暗殺される。
1861年5月28日、 元水戸藩士等が、英国特派全権公使・オールコック等を襲い、書記官・オリフアント、長崎駐在領事・モリソンを負傷させる。
(第一次 東禅寺事件)守衛も数人討死
1862年8月21日、 生麦事件(薩摩の島津久光の行列が、英国人を斬棄てる)を起こしております。
又、幕府は 遣米 遣欧使節を既に出しております。
4年前の1859年1月18日、遣米使節・新見正興一行が、アメリカに出発しています。
又、1861年12月22日 遣欧使節・竹内保徳、松平康直が随員36名を率いて英国軍艦「オーヂン号」に搭乗し品川を発しています。
尚、外国から船を買うことや留学は 幕府は 既に許しておりますので 1863年5月12日に伊藤俊輔、井上聞多、野村弥吉、遠藤謹助、山尾庸三ら5人が
英船「チェルスウィック号」に乗船し英国留学に出国しましたがこれは密航では有りません。
尚、10年前の嘉永6(1853)年6 月、大目付 深谷遠江守等は「大船製造の解禁」の上申書を出している。それに答えて 阿部老中は 同年9月、
大船建造禁止令解除。諸藩に「大船製造」の要請をしている。
そして諸藩は 財政が許すところは 次々と船を購入しました

 蛤御門の変について

去年の八月の政変(会津藩と薩摩藩を中心とした公武合体派等が、長州等の攘夷派を一掃する為に起こした政変)で 都を追われて 朝敵になった長州藩士が
勢力を回復する為に起こした戦闘。元治元年(1864)7月19日、蛤御門付近で激戦となり、「孝明天皇も戦火を避ける為に下賀茂あたりへ遷幸する準備さえ整えた。
しかし、長州藩は 戦いに敗れて、藩士は殺され、あるいは捕らえられた。この一戦で戦火の為に公卿の邸宅で焼失したもの数十、市中の焼失家屋
二万八千戸
と言われ、老若男女は 大津、山科のあたりへ 僅かな家財を持って避難したほどであった」と云う。(幕府衰亡論・福地源一郎 著)

この変で、久坂 玄瑞は 鷹司邸内で自刃しました。伊之助は 久坂等の軽挙に反対しましたが暴発してしまいました。直後に、 第一次長州征伐の勅許が下ります。
このテロ行為によって、京都の文化財は なんと多く 失われたことか。

伊之助は 倒幕、明治維新に功績を残しますが、久坂は 朝敵として 死にます。寅次郎同様 倒幕、維新では 何もやっていません。

 

 つい10年ほど前に13代将軍 徳川家定の正室となった篤姫を出し、徳川家とは親戚になった島津家が幕府を見限った理由

それは 島津久光の提言で 参預会議が持たれる事になったが、徳川慶喜との意見の差が埋まらないことであった。
有力諸侯を国政に参画させて国難を乗り切るべきであるという朝廷の意向により 参預会議が設定された、場所は 二条城、メンバーは 以下の6人。
徳川慶喜、島津久光(薩摩藩主島津茂久の父)、松平慶永(越前藩前藩主)、山内容堂(土佐藩前藩主)、伊達宗城(宇和島藩前藩主)、松平容保(会津藩主)。

【長州藩の処分と横浜鎖港問題】
参預会議において、横浜鎖港を主張する慶喜と 反対する島津久光とが激しくぶつかった。(この後、水面下で 薩長同盟の密約に向けた動きになる)。
又、【兵庫開港と、長州処分の問題】をめぐっては、久光が長州処分を優先して、且つ、処分を緩くするよう主張したのに対し、慶喜が断固 兵庫開港 優先を主張し、
ここでも激しく対立し、結果として、参預会議(文久3年末(1863)から翌年3月まで)は 短期間で崩壊した。

 徳川慶喜は 1867年10/14日、政権を朝廷に返しました、所謂、大政奉還です。その後、12/9日、朝廷は 王政復古の大号令を出します。
普通に考えれば 明治政府の新政が軌道に乗るまでの数年間は 無政府状態となり、各地で略奪が起きて当たり前ですが、新政府軍と旧幕府の戦い、及び、
士族の叛乱以外は、どでかい戦乱は 起きませんでした。
その理由は、以下にあるように、地方の各藩は 今まで通りの藩主(知藩事)が治め、幕府直轄地は 江戸城明け渡し(1868年4/11日)までは、老中中心の旧体制を認めたことにあります。

帝国大学(東大)の維新史料綱要データベース に、
「12/14日、王政復古を諸藩に布告し、旧弊一洗・言路洞開の趣旨を以て、人材の推挙を命じ、且つ、朝廷の徳川氏に おける 旧に異ることなきを諭告す。
ついで 16日、諸社・寺農・商に令する所 亦 同じ」と云う通達を朝廷が出した為です。

更に、1868年4/11日、東征総督府は、江戸町奉行に対して、「江戸市中の取締りに対して 引き続き当たるよう」命じ、
5/27日には、奉行以下、与力同心を引き続き登用するものとして以下のような通達を出しました。
「禄高扶持米等、これまでの通り下し置かれ候事」と。

勿論、給金を貰えなくなった武士及びその配下の人々、武士相手の商人等の中には、食う為に盗み、強奪などは あったことでしょう。
尚、明治6年以降に起きる新政府の徴兵令、血税に対する一揆などは 全国各地で起きました。

*言路洞開とは、「下から上への言路を開くこと」

 

 萩の乱、西南戦争は 明治10年である。
乱を起こしたのは 寅次郎の門下生 前原一誠であり、皆が希望を持てる社会を目指したはずの西郷である。
何故に松下村塾の塾生が乱を起こしたのであろうか。
そもそも倒幕後の目標が皆それぞれ違っていたことが根底にある事が伺える。
寅次郎の遺書 留魂録には 外国人 襲撃が記されている。
1854年の日米和親条約を始として 英国 フランス、ロシア等との和親、即ち、和親条約(友好)が結ばれ、
友好関係を進めるべく結ばれたのである。その後 5年も経っているのに外国人排斥を主張(留魂録)するのは 筋が通らぬ。
その遺言を守ったのか、或いは 時の情勢に流されたのかは 定かではないが、朝敵にされた久坂 玄瑞は 劣勢挽回を図り 蛤御門の変を起こして
京の町の三分の一を焼いてしまうことになる。貴重な京都の文化遺産を焼却してしまった。
1880年頃の長州の人々は 寅次郎も久坂 玄瑞をも明治の立役者と 思っていない事が分かる。
美和が養子に貰った久米次郎は 明治14年に楫取家を継いでいる。久坂家が維新の功労家と言う認識が世間一般にもあれば
とても、出来る行為ではない。又、美和自身も久坂家 第一と考えれば 名字が変わる楫取との再婚(明治16年)も しなかったであろうし、姉も そんな遺言はしなかったであろう。
これらの事実からすると 伊藤博文等の政策が 歴史を一変させてしまったことが分かる。
即ち、台湾、朝鮮政策等には富国強兵が必要であることである。
その為に日本人の精神的な礎を確固たるものにする必要があった。
そこで 出されたのが寅次郎を神と崇めた松蔭神社指定である。明治15年(1882年)11月21日である。
その後、該当する家族、国民は 洗脳された。京都の町を廃墟にしてしまった久坂 玄瑞が明治24年に贈正四位(1891年)である。
倒幕にも、明治維新にも参加していない人が何故に叙位なのか。
何とも おかしな事か。

現代のマスコミも事実を確認せず 踏襲している。それならば 徳川慶喜の方が よっぽど 立派であったと言わざるを得ない。
政権が ガラッと変わると 大混乱・戦争状態になるのが世の常。室町時代末期は 戦国の時代に突入し、京 奈良の町も応仁の乱で 至る所で
庶民は焼け出された。その後は 弱肉強食である。当時は 関東は、江戸の町が町らしくなかった時代であり、鎌倉の方が賑わっていた時代である。
世界に目を転じれば、 アフガニスタンもソ連軍撤退から既に四半世紀以上が経っているというのに 国内はゲリラ、テロが多発して
タリバン、アルカイダが暗躍し、国民は 最悪の状況にある。
イラクもシリアも イスラム過激派等によってご存知の通りである。難民は 安心して眠れる状況に無い。
それに比べれば 明治元年の頃の江戸の町は、一部不満武士の決起を除けば、治安と言い、防火組織と言い、徳川幕府が作った組織が 有効に働いた。
それと言うのも 慶喜公が関東 東北の武士に決起を呼びかけずに ひたすら謹慎に勤めたからである。明治35年、公爵を受爵。貴族院議員にも就任。
尚、楫取 素彦は 倒幕、維新にも参加し、新政府でも 群馬県令、元老院議官として 功多く、男爵を授けられている。


  鹿鳴館の「鹿鳴」は『詩経』小雅にある「鹿鳴の詩」に由来し、中井櫻洲が名付けた。
その詩の2番には以下のように記されています(原文)。
呦呦鹿鳴、食野之蒿。
我有嘉賓、德音孔昭。
視民不恌、君子是則是傚。
我有旨酒、嘉賓式燕以敖

読み下しは、
呦呦(ヨウヨウ)と鹿は鳴き、野の蒿(こう、ヨモギ)を食(ハ)んでいる。
我に嘉賓(カヒン)有り、德音 孔(ハナハダ)昭(アキラカ)なり。
民に視(シメス)こと 恌(ウス)からず、君子 是れに則(ノット)り 是れに傚(ナラ)う。
我に旨酒有り、嘉賓と式(モッテ) 燕して 以て 敖(アソ)ばん。

その解説は以下です。
呦呦(ヨウヨウ)と鹿は鳴き、野の蒿(ヨモギ)を食んでいる。
善き客がきていて、その言葉や風情は徳に溢れている。
民を視ること大事に篤く、これに則(ノットリ) 傚(ナラウ)のが君子というものだ。
我にうまき酒あり,善き客と宴を催して遊ばん。


* 呦呦は、鹿の鳴き声であり、ゆうゆうと草を食べている状態を指すのではない。
* 燕は、宴を催すこと。
* 敖は、遨が旧字で 遊ぶこと。

 

楫取 素彦と美和子の年譜

NHK 大河ドラマ花燃ゆ

NHKエンタープライズの漢詩紀行100選には 間違い 及び不適切な部分が多くあり。 

又、ウイキペディアの西郷隆盛の系図は 明らかな間違いなり。 隆盛の始祖は 鎌足ではありません。

過去のNHK大河ドラマ

黒田官兵衛

八重の桜

平清盛

坂本龍馬/ペリー来航

天地人・直江兼続

篤姫

風林火山

功名が辻

義経

新選組

宮本武蔵

利家と まつ

北條時宗

葵三代

元禄繚乱


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