真田幸村(信繁)の南蛮鎧の件

ニセ者がニセ物を有料展示していることを皆さん 許せますか。
これは犯罪です。本人は幸村の鎧でないことを知っているのですから。

幸村使用の南蛮鎧など 始からない事が分かる。蔵王町大阪の大丸のイベント等で展示された南蛮鎧の具足が あるのなら

リンクされているページの絵の本人の脇に 古いが 同じ大きさの南蛮鎧の具足があるはずです。

その南蛮鎧は 文化庁などによる選定がされているわけではありません。

蔵王町、NHK仙台、大丸など、皆 騙されてしまっていますが 幸村の子孫でないので 忍術が効かないのです。

当然 そんなに立派なものがあったのなら、太平洋戦争時、 親父が出征した時に無事の祈りをこめて写真を撮っているはずです。

何故ならば戦さ上手の幸村なので 必ず武運を祈って南蛮鎧と一緒に撮っているはずです。

又、現在の当主が5歳になった祝いに写真を撮るとか、しているはずです(七五三の祝い)。

昭和2、30年代に写真ブームが起きた頃に小学生だった現在の当主が南蛮鎧と一緒に近所の友達と撮った写真があるか、
聞いてみて下さい。当然 自慢の鎧なので 色々な子と写真を撮っているはずです。また、仲間の間で鎧の話が話題になったか、です。
言い伝えは 目に見えませんが、物は あるかないか、なのです。

この画像のように ちょっとしたことでも写真を撮る家なので。 

現在の当主の側に居る方は 一度 お尋ねになったら如何ですか。

当然 自慢の鎧なので その白黒写真を喜んで見せてくれることと思います。

喜平太の油彩画が残っていて 白黒写真が火事等で紛失したという 言い訳は きかないということです。

以下は宮城県蔵王町のホームページの解説です。

「 仙台真田氏に伝来する「幸村公所用具足」を身に付け、「幸村公所用(死持)采配を手にした喜平太の油彩画です。
明治初頭に同ポーズで撮影した写真があり、それをもとに描かれたものです」と。

平成の時代前後に甲冑業者から購入した物と思われる。
ニセ者 及び ニセ物 は ここからも断定できます

 

南蛮鎧が偽物(幸村所用の物でない)である理由

① その鎧は ピカピカ光っていて 400年の古さがない事。倉庫にしまいっきりなら腐っている。

② 甲冑武具・史料考証専門の美術館である京都の井伊美術館の人によれば 「それは偽物」と 仰っている事。
  「400年も前の物は 布などの部分は 劣化が激しい、よって 鎧の移動は不可能」と。
  長野市や大阪大丸や蔵王町等のは 偽物(昭和の物)だから 鎧を箱から出し入れして組み立て出来る
  徳川美術館で 分かるように本物の貸し出しは一切厳禁です。

③ そんな宝が有るのなら真田喜平太肖像の絵に描かれているはず、しかし、脇にも無ければ身につけてもいない。
   采配より鎧のほうが宝なのに喜平太肖像画の鎧が 何故ないのか。幸村所用のものでないので明治になって ボロボロなので 捨てられた。

平成になって 鎧と夫婦一緒に写真を撮る家なので 節目には必ず写真を撮っているはず。
  現在の当主の親父が太平洋戦争時 戦地に赴く時には 戦上手の幸村の鎧を付けて 無事を祈って 写真を撮っているはず。しかし、無い。

⑤ 2016年6月29日、現在の当主に、七五三や成人のお祝い時に自慢の鎧と一緒に撮った写真があるかを尋ねたら、返答も無く、逃げ回っていること。

⑥ 南蛮鎧のような重くて 身動きに支障をきたす鎧は 馬にまたがり、実戦を重んじる幸村が持たなかった事。

⑦ 国主にも 殿様にもなっていない幸村が持っているはずが無い事。信長や家康のような殿様が飾ったり、陣中で采配を振るう人が身につける物である。

⑧ 大阪城に置いておいた鎧は焼けてしまっている事。

⑨ 道明寺の戦いで戦死した時着ていた実戦用の鎧は、討ち取った西尾仁左衛門が福井県の西尾家の菩提寺「孝顕寺」に首と共に埋めた事。

⑩ 真田家の正史には 15年暮らしていた九度山には 何も残さず 大阪城に入ったことが記されているので 九度山にも残していない。

⑪ 幸村等は 戦死して 持ち帰っていないので あるはずもない。

⑫ 帰るところが無くなり、生き残った女 子供では そんな重い鎧を 車の無い時代に運べるわけもないし、大阪城から
  うまく運び出せても 明智光秀のように野武士にやられて、遥か彼方の仙台までたどり着くのは不可能。

⑬ 今、大阪城に展示されている物は 南蛮鎧でなく、実戦用の軽い鎧で、真田本家に残して来たものである。南蛮鎧は 本家にも無い事。

⑭ 「幸村の兄弟 従兄弟などの協力者が居ない中、そんな重い鎧をどのように、何処の場所から、誰が仙台に運んだか等」、
   子孫と称する当人が 説明できなかったこと。

⑮ 仙台真田家の始祖 守信の親父は 幸村(信繁)ではなく、政信だから 幸村の遺品を持っているはずがない事。

⑯ 以下でも 偽物である事の証明が出来る。


平成25年・2015年7/7~9/1、長野の池波に貸し出した、その画像、同じ平成25年、蔵王町で4/21~6/30まで 展示、真田さんは 複数の鎧を持っている。

この画像では 上下の鎧は 違う。又、こう言う鎧も持っている。蔵王町では 平成21年から仙台真田氏の歴史講演会をやっているが まだ この時は
鎧の展示は無かった。 25年から突然 南蛮鎧が出てきました。24年は これだけ。更には 古さを強調する為に このような鎧も一時持った。

幸村の遺物と称している物が年々 増えている、こんなデタラメを許してよいのか。

* そもそも 仙台真田家の12代さんは 昭和40年代から暫らく古物商を営んでいたので 複数の鎧等を所持していた。

* 2020年4/27日、「テレビ朝日の戦国武将ベスト30」で放映された真田幸村の子孫及び南蛮鎧の両方が偽もの という事です。
  2021年現在、テレビ朝日は 偽物と認識したとのこと。   

真田幸村の子孫がいると言う説デタラメな証拠


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