大河ドラマ 井伊直虎

 

城主は 女だったのか、男だったのか。

普通に考えれば 男でなければ 勤まりません。

ましてや 戦国時代では 馬にまたがって 陣頭指揮を執る必要があり、号令の声や、風貌で、敵になめられて

敵に普段以上の勢いを与えてしまうことになるからです。

小生 藤原は 武士の時代 約 700年(平家誕生から)、武士の家系図を見てきましたが、女が家督を継いだ例は 見たことがありません。

女しか生まれなかった場合は 婿をとって その婿に家督を継がせます。或いは 数代前の分家の男(養子)に本家を継がせます。

今回、NHKの大河では 女城主と言う事で 従来の常識からかけはなれたドラマが見られそうで、興味がわくところではあります。

しかし、12/15日、井伊家の子孫が運営している 京都の井伊美術館から戦国時代当時の資料が見つかり、

「城主は 男だった」と言う 中日新聞のニュースが 流れました。

もう既に 来年3月頃までの放映シーンは 舞台撮影は 終わっているはずです。

その資料を色々な角度から検証する必要は 残っていると思いますが、そのニュースに反論した

静岡大学の小和田哲男名誉教授の「井伊家の跡取りが代々『次郎』を名乗っていた」と言う説は 正解ではありません。

弥太郎や彦太郎を名乗っている人がいるからです。たまに NHKは史実と逆の事をやることがあります、前回の真田丸のシーン

小生 藤原は 井伊家の子孫が所持している資料が正しいと思います。(2,016年末現在)

以下は 寬永諸家譜の画像です。

井伊系図(寬永諸家譜)

井伊家の全体の系図(読史備要・著作者 東京大学史料編纂所)

 

今川氏の系図(寛政重修諸家譜)

吉良長氏┬吉良満氏-
    └今川国氏-基氏┬頼基-頼貞
            └範国┬範氏-泰範-範政-範忠-義忠-氏親┬氏輝-
               ├貞世-              └義元
               ├氏兼                  │
               └仲秋                  │
                                    │
                                    │
   ┌――――――――――――――――――――――――――――――――┘
   └氏貞┬範以-範英-氏尭-氏睦-範高-範主-範彦-義泰-義彰-義用
      └高久(品川)-高如   

       家紋 丸に引両筋、五七花桐

       *範英 江戸幕府に仕え 高家たり。

 当時の出来事

            年        出来事                               内       容
天文13年(1544) 井伊直満死す 今川義元によって殺害された
  〃 18年(1549) キリスト教伝来す フランシスコ・ザビエル 鹿児島に来る
  〃 22年(1553) 川中島の戦い(第一次) 武田信玄と 関東管領上杉憲政の要請を受けた長尾景虎(後の上杉謙信)が信濃国で戦う
弘治 3年(1557)    〃             (第三次)
永禄 2年(1559) 岩倉城の戦い 尾張国の上四郡を支配した守護代「織田伊勢守家」の居城(岩倉城)を攻めて 信長が尾張統一を果たす。
  〃  3年(1560) 桶狭間の戦い 織田信長、今川軍を破り義元を討ち取る。
  〃  4年(1561) 景虎、関東管領に就任 鶴岡八幡宮において3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎(後、輝虎・謙信は法号)と改めた
        〃  8月 川中島の戦い  (第四次) 関東管領 上杉政虎と甲斐国守護 武田信玄との戦い(川中島の戦いで最大)
  〃 5年(1562) 清洲同盟 織田信長と松平元康(20歳、後の徳川家康)が信長の居城である清洲城において結んだ
  〃 7年(1564) 川中島の戦い  (第五次) 川中島の戦い の最後。塩崎の対陣とも言い、にらみ合いで終わった 
  〃 8年(1565) 永禄の変 松永久秀、 将軍 足利義輝を殺す
    〃 8年 信玄の長男の陰謀発覚 武田太郎義信、今川氏真の妹を妻とするも、信玄によって廃嫡され、幽閉の後、二年後 自害した。
   〃 10年(1567) 信長の稲葉山城攻め 斎藤道三の孫 龍興、信長に攻められ 稲葉山城(後に信長、岐阜城と改む)を開城して 伊勢長島へ落居。
  〃 12年(1569) 信玄の駿府攻め(今川館) 今川氏真、信玄に攻められ、駿府城を捨て、遠江の掛川城に落居。

 12日のシーンの件
「道威(どうい)という王に、甲乙つけがたい2人の大臣、中と伯。ある争いから、王はどちらか一人を追い出さなくてはならなくなった」。
と言う南渓和尚の話のシーンが有りましたが、この逸話は

「南渓和尚の創作逸話」との NHKの回答を得ました。
まあ、それであれば 少女に対しての話なので 何も 実在しない国名や人の名前をあげるのも どうかと思います。
「ある国に殿様思いの忠臣が二人おりました。」で、充分説得させられるものと思います。
最近の大河ドラマは 史実と思わせるようなフィクションが 多くなりました。

 一向宗とは 鎌倉時代では 当時代に時宗を開いた一遍の弟子・一向俊聖が開いた宗派を指し、昭和の戦後 及び平成の時代では、浄土真宗(本願寺)を一向宗としています。
よって、戦国時代の一向一揆は、真宗本願寺門徒の一揆(結束した集団およびその集団による武装蜂起)を指します。

尚、織田信長が石山本願寺を屈服しようとした最大の理由は、その場所が 天下統一を考えた時には 戦略上 非常に重要な場所になる事を知っていたからである。
毛利輝元も重要な場所と認識していたから 本願寺の求めに応じて、村上水軍を援軍に出しました。一時は 信長も撤退をよぎなくされましたが、 鉄の船を作り、九鬼水軍を
抱き込んで、 村上水軍を撃破(第二次 木津川口の戦い)し、天正8年(1580)、正親町天皇の調停により 和議し、石山の地を手に入れました。
数年後 その場所には 秀吉が大阪城を作りました。そして数十年後には 家康を相手に冬の陣では 真田丸を築き、多いに善戦したことは 皆の知るところです。

尚、家康の生涯に於いて 家康の三大危機と言うのがありました。
秀吉と戦った 小牧長久手の戦い 及び 関が原の戦いでも 「命からがら」と云う事が無かった家康の危機とは。

一つ目は 家康がまだ 松平元康と名乗っていた頃の「三河一向一揆(1563)」です。
二つ目は 武田信玄にやられた「三方原の戦い(1571)」、この時は 逃げるのが精一杯で 「馬上で クソをもらした」と云う。
三つ目は、明智光秀の本能寺の変後、明智勢の家康狩を避けた「伊賀越え」。

さて、その家康に 井伊直虎は どのように対応していくか。見ものです。

 小野政次が言った独り言「死せる直親、生ける二人を結ばせるか……」は、中国の三国志に出てくる「死せる孔明、生ける仲達を走らす」と云う故事をもじった言葉です。
今まで いがみ合っていた 直虎と しの の関係が少女高瀬(直親の娘)の出現によって改善した事を表現したものです。
故事の件は、
蜀と魏の戦いの一つである五丈原の戦いの最中に蜀軍(軍師は諸葛孔明)が撤退するのを見た魏軍(軍師 司馬仲達)は これは罠と認識して 仲達も撤退したと云う故事。
戦いの最中に蜀軍は 孔明の死を伏せ 孔明の木造を立てて 撤退したと云う。

大沢氏のルーツ

寬政系譜により系図を作れば 以下の如し。

       藤原道長の子 頼宗の後なる持明院基秀(貞治年中【1365年前後】、遠江国に下向し、堀江城に居し、これより代々ここに住す)

       -基久(大澤を称す)-基武-左衛門佐-基利-治部大輔-基影-基輝-基房-基相

       -基胤(今川氏真に属し堀江城を守る、永禄十二年家康に属す)-基宿-基重-基将

       -基恒-基隆-基朝-定寧-基之、代々奥高家。家紋、丸に杏葉、角大文字、浮泉花。


 

NHK大河ドラマ おんな城主直虎

 

過去のNHK大河ドラマ

真田丸

花燃ゆ

黒田官兵衛

八重の桜

平清盛

坂本龍馬/ペリー来航

天地人・直江兼続

篤姫

風林火山

功名が辻

義経

新選組

宮本武蔵

利家と まつ

北條時宗

葵三代

元禄繚乱


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