当信寺の墓石の件

片倉守信の墓石を真田大八としていたのが 間違いであったので その看板が 訂正されました

 

                 
片倉守信についての看板

 

上段の円柱は 昭和55年頃に建てられ、下の案内板は 平成28年に建てられたものである。

平成28年の大河ドラマ真田丸を契機に 真田氏の研究が進み、新たな事実が出た為、白石市の教育委員会が従来の説を訂正したものである。

即ち、片倉守信が真田幸村の二男とする説に疑問をていしたという事です。

只、当信寺及び 蔵王町は 地方の町おこしということもあって、大八=守信説を完全否定していません。寺の円柱の看板は 訂正されておらず そのままです。

そもそも 大正時代までは 当信寺に大八の墓があるとは 記されていませんでした、白石町誌には 阿梅は記されていますが大八は 記せれていません。

又、大八が 片倉氏に保護されたと云う証拠の古文書もなく、口伝だけであり、反対に亡くなったことが真田の正史及び玉露叢に記されています。
玉露叢の筆者は 有名な林羅山の息子 鵞峰である、(儒者であり、幕府の歴史学者)。

尚、仙台真田家の家譜は、作成時期が昭和の戦後であり、記されている内容が史実と異なる事が記されていることから、全く当てになりません。

又、仙台真田家に残る言い伝えは、真田本家の正史、片倉家の正史(代々記)等の史実と 違うところが多く間違いでは 大八の墓とする根拠がありません。

家譜もあてにならず、言い伝えも史実と違う所が多いのでは、守信を大八と断定できません。同人どころか別人と断定出来る点が多いのです。

そもそも、守信は 幸村の人気が出だして 胸を張れる時代になっても、幸村の子らしいことを何一つしていません。お袋の位牌は 嫁に行った阿梅が引き取っていたり

幸村の菩提を弔う為に幸村寺(月心院)を建てたのも娘の阿梅であり、壮年になった守信は、月心院の檀家にもなっていない。

守信が没する頃は 幸村は 有名になって 20年以上が経過しています。白石城主の片倉重長も真田を誇りにし、家紋まで使用したほどです。

伊達世臣家譜には 真田昌幸の弟 信尹の子 政信、その子  守信と、なっております。即ち、 幸村の子ではないと言う事です。

寛文の頃、阿梅は 守信を「弟と思っていなかったから、幸村の位牌を作っても守信の位牌は 作らなかった事(当信寺内に)」、

その当時の住職も「二人が兄弟と云う認識がないから墓は別々の離れた所に設置されたことについて容認した事」、

尚、昭和時代の戦後に 寺の墓地整理の為、二つの墓石は 現在の所に並立された。

又、「阿梅が亡くなってからは 寺側は、阿梅だけの位牌を作り幸村夫婦と並べた事」。岡田石材工業の阿梅と両親の位牌をご覧下さい。

その他 様々な状況証拠からして、大八と守信が同一人物になりません。そもそも大八は 夭折しているのです。


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