宝島社の「真田幸村の真実」と云う本に載った「片倉流真田氏」の系図は 江戸時代の人の作成ではない

仙台に生き延びたと云う真田さんは 真田幸村の子孫ではありません。片倉守信と真田大八は 全くの別人です

 

上記の系図に出てくる「真田」の文字が 最初の は、旧字体の略字(異体字)であり、後のは、新字体である事()、江戸時代は 旧字体しかなかった。

即ち、カンムリ部分が「十」でなく、「カタカナのヒ」、「」である。1615年当時の事を記した玉露叢の文字をご覧下さい。

よって、この系図は 江戸時代から伝わった系図ではない。

新字体は、大正12年に文部省により制定されました。制定されたからと言って 民間人が使うようになるには 年数が必要です。

活字の印刷書物は 即、新字体で 書かれた書物も出始めました。昭和8年の書物でも旧字の「」です。

義務教育で習った後なら新字体も習慣的に使えますが、大正時代の人は 旧字か 旧字の略字を使っていました。

よって、この系図は 昭和に書かれた系図であり、平成の作、と言うこともできます。「幸村の真実」と言う本は 幸村の子の部分はデタラメが多い。

寬永の家光の時代になっても 真田の名前を伏して片倉守信として「真田を名乗ることが出来なかった」と主張している平成の子孫が

一方では 「夏の陣直後に真田の息子を証明する家系図を大八(幼児)が所持して 仙台に来た」と本に記している

家系図を持っていれば 即、身分がわかってしまうことである。非常に矛盾した事である。

夏の陣直後は周りは敵ばかりで、まさに幸村との関係を隠す時でした。敵の大将の子となれば、殺されるか、捕えられて 家康に差し出され、手柄にされるだけです。

家光の時代になると 幸村は 見直されて 娘が次々と有名な大名に嫁いでいる(1628年頃)のである。

嫁いでから十数年が経ち、守信は伊達家に仕えた(1640年)のである。

子孫の言い伝えは デタラメである。

そもそも、真田の名字を隠さねばならない時代に、両親が大八に真田の系図持たせる訳がありません。 

尚、当然、本に記されている「大八が保護された経緯」と言うのは 間違いである。大河ドラマで 「政宗保護の場面は フィクション」と

NHKは 認めているが 史実と反対のシーンを放映したことは フィクションのワクを超えてしまっている。

* 大八は 保護されていない。夏の陣の前に夭折している。それが真実です。

そもそも 折りたたんで 場所も取らない 江戸時代の和紙の系図1枚も 伝わっていないのに、400年前と云う 布で出来た采配や大身の鑓などが

伝わっている事自体が ありえません

本人 幸村や世継ぎも亡くなっており、一族は 幸村の大阪参陣に対して 反対している環境で、その重い鎧や長い鑓が

車の無い時代に千キロも離れた仙台に有る事自体が不自然です。

もし、火事になれば 布の采配等も 燃えてしまうのは 当然の事です。ニセ者がニセの南蛮鎧有料展示したことも大問題です。

皆さんは それを許せますか


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