仙台人名大辞書(昭和)の中の真田氏の項に記されていることはフィクションそのものである

「サナダ・ウメ」の項に夏の陣時、駕籠二挺をだして 保護したような記述があるが、これは戦乱を知らない人の記述である。

小走りの行軍なら 大阪から白石まで 約千キロの距離を 15日で到着できるが、駕籠を伴えば どうなるかである。

大事な人を置いて 片倉重綱が馬で走り去るわけにもいかず、盗賊の出没にも備えなければならない。そうなれば駕籠を挟んでの移動とならざるを得ず

又、かつぐ人の交代等を考えれば、3倍の日数がかかることになり、千人の将兵が居れば、3倍の食糧等の調達をどうするかだ。

伊達政宗が そんな莫大な費用が かかることを許可するはずもない。又、政宗は 軍律違反を知っている武将である。

尚、大河ドラマ真田丸の「伊達政宗の保護シーン」は デタラメと判明しております。

そもそも 敵の大将の家族を保護すれば 謀反を疑われ、この頃 持ち上がっていた将軍の娘・振姫の嫁取り話が反故になるばかりか、

伊達家 お取り潰しに繋がる。そんな事を伊達の重臣が やるわけもない。駕籠の件は、全くの作り話である。

阿梅は乱取されたことは 江戸時代の書物である真田の正史にも 仙台叢書にも記されていることである。

この辞書は 1933年頃書かれた書物であり、「阿梅を得た」と記されている片倉代々記は 、1680年代に完成していますので、どちらが正しいかは

言うまでも有りません。しかも、片倉代々記は 片倉家の正史です。

尚、白石町誌には、「駕籠 云々」の事は 記されていない。と言う事は 「サナダ・ウメ」の項は、 幸村の娘、及び、重綱の後妻になったこと

及び 没年の部分以外は フィクション(作り話)である。

即ち、大正14年に出版された「白石町誌」には、重綱が梅子を陣中に引き取ったことは 記されているが

「重長の陣前に駕籠二挺あり、重長、人をして之を見せしむるに、共に妙齢の女、その一人は 即ち、幸村の女なり。重長、政宗公に請いて、携へ 帰る」等とは

記されていない。駕籠二挺云々は 全くの作り話である。勿論、この町誌自体も、講談本からの引用であり、史実ではない。

史実は 阿梅は略奪されて、数年後に 幸村の子であることが判明したのである。

当然、真田守信の項の「阿梅外 五子を重長に託す」も 講談本からの引用であり、事実では有りません。フィクションです。

守信が伊達藩士になった寬永17年(1640)には 既に 四女 あぐり、五女 御田、六女 阿菖蒲は、次々と有名な武将に嫁いだ後であり、幕府としては

真田アレルギーは 消えていた。秀忠も亡くなり、既に家光の時代になって久しい。「幕府に憚る所ありて」とか、「大八が敵将 幸村の実子なるを以って 幕府に対して

明記するを得ず」と記されているが、守信は 江戸から遠く離れた仙台の人である。幕臣として幕府に仕えるのなら、幕閣の中には 厳しいことを

言う者も おるだろうが、地方の藩士の事なので、幕府としては どうでもよいことである。

寧ろ、片倉重綱に至っては 幸村の娘を後妻に迎えた(1628年頃)ことを誇りに思っている。

その証拠に 幸村の家紋 六連銭を片倉家の家紋として加えて、その服装までしている。誇りにしていたと云う事が記されている真田の正史を見ていないから

仙台の子孫は「幕府に対して 明記するを得ず」と云うような言い伝えにしてしまったと云う事です。

尚、「仙台人名大辞書」は 昭和8年に出版された本である。片倉守信が生きた時代から300年経ってしまっている。

よって、当 先祖からの言い伝えも 可なり、間違って伝わってしまったということです。

立川文庫の講談本(フィクション)で、大正のベストセラー を読んだ文豪 幸田露伴は「こうデタラメだと、いっそう おもしろい」と述べた。

この事は 露伴も、講談本には 可なりのデタラメが記されていると認識していたと云う事です。

まさには、「仙台人名大辞書」の真田の項は デタラメと云う事です。

そもそも、真田大八は、真田本家の正史には 早世と記されており、片倉守信とは 全くの別人である。

よって、守信は 片倉の項に載せるべきで 真田の項に載せること自体が間違いである。


この辞書の著者は 歴史学者でもなければ、国文学の学者でもありません。元 新聞記者ですので、うわさ話とかニュースを集めるのは 得意だったのでしょう。

よって、史実とは 異なる事が 載ってしまったと言う事である。

 

仙台の真田家に伝わる言い伝えの間違い一例。【幸村が亡くなってから 400年、子孫でもない家に正確に伝わるわけがない】

①幸村の遺児 5人の保護の件。【保護も無かったし、密約等 無かった】

②江戸時代は 叔父の信昌(信尹)系統の子孫として 幕府を信用させていたと云う説は意味のない説である。【片倉守信として代々 伊達藩士なので】

③片倉重綱に略奪(乱取)された阿梅は 17才で 重綱の後妻に入ったとしている。【実際は 25才くらいである】
    白石城主の片倉氏の正史と仙台の真田を称する子孫の言い伝えとは、どちらが正しいかは、疑う余地は無く、正史です。

江戸時代からある系図には 大八が保護された経緯が記されている。【大八は京都で早世しているし、その系図自体も明治以後に作られたものである】

⑤ 西村孫之進(景国)・吾妻佐渡に遺命して、幸村二男の真田大八等を白石まで 護衛した件

   【既に大八は 亡くなっているし、西村孫之進が 護衛して送り届けたのであれば、その時点で 真田幸村の娘である事が 分かることになります。
    しかし、片倉代々記には「誰の女なるか知らず」と、記されています。     阿梅が生存していることを夏の陣の十数年後に知って、西村などが片倉氏に面会した為に
   阿梅が 幸村の娘という事が証明され、 その後、阿梅が片倉重綱の後妻に 入った関係で 片倉氏の家士になったのです。
    片倉代々記に「三井奉膳これなり」と、記されています。よって、幸村は 遺命していません。作り話です。

⑥仙台真田家に伝わる幸村の南蛮鎧の件。【それは ニセ物

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