真田幸村の子孫が居ない理由



大河ドラマ真田丸で 放映された「幸村の妻子が伊達政宗に保護されたシーン」は、フィクション(作り話)との回答を

NHKのハートプラザ 松崎さんから直接 得ています。12/13日にNHK本社に出向いて 聞きました

保護されていません、デタラメです。妻の竹林院と 女児は 九度山に向かう途中で 家康の命令で 浅野氏によって捕縛された事が

超有名な人の息子が書いた当時の歴史書に書かれております(1598年~1680年の史実を記した玉露叢)

尚、この保護を否定する説明が真田丸の時代考証役の一人である黒田さんは自分のページで 以下のように記しています(但し、一部ミスあり)。

実際には、竹林院は、数人の子供と ともに、大坂落城後に同城を脱出するも、紀伊国の浅野氏に捕縛されています」と。

(これでは「何の為の時代考証なのか」と疑わざるを得ませんが事実を記しているので 可としておきましょう)

 

 

仙台のはニセ者、真田幸村の子孫は居ません(男系)

最近(2015年前後)、ネットでは 真田幸村の子孫が いるように記しているサイトがありますが、何を根拠に 直系子孫が居るように

記しているのでしょうか。重要なのは 根拠です。幸村の二男 大八が保護された古文書はなく、逆に早世した記録があります。

一つのサイトをうのみにして さも本当らしく記す事は 大きな禍根を残します。 

「大八は死んだ事になっているが実は 片倉氏、或いは伊達氏に保護されて 仙台で生きた」とする説は
その説を裏付ける証拠がありません。昭和になって記述された本は 間違いが多く、デタラメが記されている仙台人名大辞書か
或いは 真田幸村の子孫と称する人の口伝を根拠としています。
その口伝は 史実と違うところが多く、当てになりません。
300年後、400年後の子孫がどう推測 解説するかが重要ではなく、400年前の当人及び家族、お寺さん等が どう対応したか。
当時どうであったのかが重要なのです
片倉守信が真田大八でない理由」の10項目をご覧になれば 納得できるものと思います。

真田幸村の子孫と称する方の言い伝えは 史実と合わない事が多い。
それにもかかわらず、子孫と称する方は「真田幸村の真実」とか「真田幸村の系譜 直系子孫が語る四〇〇年」等の本を出版しました。
この事は 「由緒ある蓮華定院の記録」或いは 「真田本家の正史」及び「片倉代々記」等の歴史書の記録が間違っていると誤認させる事に繋がります
国民の皆様は こんな事があって良いと お思いでしょうか


2,016年秋、当信寺にある大八とされていた墓の看板が白石市の教育委員会によって訂正されました

 

昭和になって発行された「仙台人名大辞書の真田の項は」デタラメであり、直系子孫と称する人の言い伝えは 間違いが多いのです。

何故ならば その辞書は 子孫と称する人の口伝や講談本を元に記されているからです。著者は 歴史学者でもありません。

講談本を読んだ文豪 幸田露伴は「こうデタラメだと、いっそう おもしろい」と述べた。

誰でも書き込めるウィキペディアも間違っています。仙台人名大辞書の真田の項を参考にしている為、間違って記述されています。

 

ニセ者がニセの南蛮鎧を有料展示していることを皆さん、許せますか
その当主の馬にまたがった得意顔も見えます。

 

真田幸村の子孫が居ない事を示す古文書

片倉守信は 幸村の子ではありません、別人です。よって真田幸村の子孫は居ません

夏の陣時、大八を含めて 「真田幸村の子 5人が保護された」と云う説も 真田の正史仙台叢書により、間違いである事も判明しました。

この事は 宮城県、及び仙台市 及び近隣の市の教育委員会の責任者、及び仙台博物館の責任者 も 認めていることです。

真田幸村の子孫の真実は 以下の専門書にある通りです。それは普通の本ではなく、家系の辞書です。

真田幸村の男子は 確実に確認されているのは 二人です。(九度山の貧乏生活で、側室を持てるはずがないので。) 

長男 大助は 夏の陣の最後、大阪城にて 豊臣秀頼に殉死しました。

二男 大八は 冬の陣の前に 京都にて 夭折しました。女子は 早世した子を除けば、嫁いでいますので 真田の名字を名乗っていません。

即ち、真田幸村の男子は 絶えていますので その直系子孫は 現存していません、真田幸村の子孫は居ないと云うことです。

片倉守信幸村の子ではありませんので その子孫は 「片倉流真田氏」です。勿論、真田幸村の血を引き継いではおりません。

直系と記している本 及び サイトは 全て間違いです。

また、「真田幸村の真実」と題する本を真田幸村の子孫と称する人が全国誌に出版しましたが、その内容には 史実と異なる事が多く載っています。

真実ならお金を払う価値がありますが、皆さんは どう思いますか。漫画本なら とやかく言いませんが。

歴史を歪曲するのは 問題だ、と思う人は このページ( http://www.myouji.org/sanadayukimuranoshison.htm ) にリンクしてください。

ご自分のサイトの「真田幸村の子孫」と言う文字から。

尚、信州の真田本家の子孫は 滋野流真田氏の正式な ご子孫です。真田昌幸―信幸(信之)―信政と代々 繋がってきました。

 

真田幸村の子孫が居ないことを示す辞書・系図

新編  姓氏家系辞書  丹羽基二 編・秋田書店

真田幸村の子孫

以上のように真田幸村の男子の系統は 絶えたと言う事であり、フィクション情報を基に作られた仙台人名大辞書を参考にした書物・サイトは 全て 事実と異ります

尚、丹羽 基二氏は 太田亮氏に次ぐ家系の大御所であり、日本家系図学会の会長でもありました。

 

さて、系図から申し上げても 真田幸村の長男 大助 及び二男 大八は 若くして 亡くなっております。以下をご覧下さい。

以下は幕府の「寛政重修諸家譜の真田氏」の画像です。当系図は 寛政11(1799)年から文化9(1812)年、14年かかって完成しました。

寬永系図では 真田幸村の名前は 消えていますが寛政重修諸家譜では 復活しています。

寛政時代の この頃は 真田幸村人気で 本家も代替わりしていまして、信繁(幸村)を載せて幕府に提出しました。

しかし、真田幸村の後継男子はいないので 幸村の子供たちの名前は有りません。よって真田幸村の子孫は居ないと云う事です。

尚、真田家の正史「真田家御事蹟稿」は、 天保14(1843)年に完成したものであり、その50年前には 既に真田幸村の子は 早世している事を把握していた訳です。

そもそも 真田幸村は 兄の信幸に九度山で生活(約15年間)していた頃、生活費の工面を依頼しており、手紙のやり取りを度々していました。

当然、大阪の陣前に、真田大八が亡くなった事も 伝わっているはずです。ですから寛政重修諸家譜 には 幸村だけの名前にしたものと思われます。

幕府の系図には、早世した者、女子の名前は記さないのが慣わしです。

真田幸村の子孫 真田幸村の子孫

上記 右側の系図の真田幸村には 別家を建てたとも、子供の名前の記載も有りません。そもそも幸村は 寬永系図には 幸村の名は 消されて 系図書きを幕府に提出されました。

仙台の真田さんの説は 江戸時代は 分家の信昌の子 信勝(正信)の子としていたと云う。そして その政信は系図上は いない人(系図の偽造)とのこと。

しかし、正式な寛政重修諸家譜には 「マサノブ」は実在した人物です。反対に載ってないのは「守信」なのです。ここからも真田幸村の子孫は いないと云う事がわかります。

そもそも 初めから 大八が守信と 苗字と名前を変えたと言うのなら、叔父さんの系とするニセ系図を作る必要も無いのです。この点も矛盾することです。

又、「幸村の子が仙台に生存しているのではないか」と言う噂が立ち、幕府の詮議を受けたが「分家の子孫と説明して 納得させた」としているが

幕府は 納得するに当たり、実際に信州の本家、分家の話を聞けば 何が本当かがわかることになり、その噂の話自体が「作り話」と云うことです。

●印は 後継人です。

* 画像の「信勝」の所に記されている「作る」とは「書す・書く」と言う意味です。

 

系図を幕府に提出するに当たり、分家は本家と協議するものである。1790年前後に既に分家のマサノブの子孫が仙台の守信が

マサノブの子であると認識していれば 守信をマサノブの子 信利と同じように守信を加えたはずである。しかし、守信は 系図に居ない。

と云う事は、守信は マサノブの子でもないと言うことがハッキリわかる。この事からも真田幸村の子孫は 断絶していると云うことです。

そもそも 真田幸村の叔父さんの信昌(信尹)の子 信勝(正信)は、幸村の従兄弟である。その従兄弟の子である信利は 載っているのに

幸村の子が載っていないのは何故か。

これは、真田幸村の子 大助、大八が若くして亡くなっているから載っていないのである。真田幸村の子孫が居る事自体が 間違いなのである。

この系図は 1615年(夏の陣)の175年後の1790年頃のものである。この寛政重修諸家譜上からも 大八は亡くなっているし、真田家の正史

「真田家御事蹟稿」にも死が書かれている。よって 守信(真田)は、大八ではない。 当然 真田幸村の子孫に繋がるわけがありません。

また、「真田家御事蹟稿」には 真田家三代 藩主 真田幸道は 江戸の屋敷で片倉沖之進と言う人物と会っており、話をしております。

この時、真田幸村の孫と言う話しになっていれば 真田本家の人々 及び その家臣は 多いに驚いたはずです。

藩主 真田幸道が 沖之進と事を話したから「真田家御事蹟稿」には「沖之進」の名前が載っているのです。

真田本家は 幸村の娘である阿梅が片倉重長の継室と なったと言うことを この時、知りました。よって 沖之進が 真田の家紋である

六連銭入りの服装をしていた理由は 話したが自分が真田幸村の孫であると言う事は 話さなかったということです。

この時、沖之進の口から もっと驚くべき事柄、即ち、「私は真田幸村の孫と云う言葉」が出れば 阿梅の事が記されているように

守信の事が記されるはずである。当然、寛政重修諸家譜 及び 『真田家御事蹟稿』に記されて然るべきであると云うことです。

記されてないということは 沖之進は 幸村の孫でないと言うことです。即ち、真田幸村の子孫には繋がらないと云う事です。

当然 この頃は 幕府も真田幸村アレルギーも消えており、寧ろ 人気者になっており 幸村の孫であれば 隠す環境に無かった

それなのに沖之進は 幸村の孫と言う話をしなかったという事は 真田幸村の孫ではないと言うことです。

尚、寬永の頃、「大八が仙台で生きているのではないか」との幕府の追及をかわすために偽の系図を作って 幕府を納得させた。と言う説があるが、

それは あくまでも仙台の子孫と称している方の説です。その子孫の方の言い伝えは 間違いが多い

その偽の系図に出てくる政信は、幕府の公式な当系図では 実際に居た人で、偽者ではない。これも矛盾することである。

寛政重修諸家譜には、真田信勝の所に『今の呈譜 正信に作る』と記されています。マサノブは 居たのです。(政信は正信と通じ用いられることあり)。

そもそも、家光の時代になり、寬永の頃には 幸村の墓も各地に数ヶ所建てられる時代になっており、地方の藩士の素性を幕府がチェックする事は ありません。

勿論 各地の藩主(殿様)の系図は 幕府は 提出させました。尚、幕臣になるのなら、厳しいことを言う幕閣も 居るだろうが、東北の藩士のことなど、どうでもよい事であった。

そもそも、「大八が仙台に生き延びているのでは」と云う噂が出るはずがないのです。大八は 夭折しているのですから。

又、夏の陣の直後に 幸村の妻 竹林院は 家康の前で 詮議を受けました。そして 男子がいないことが分り 許されたのです。

真田の正史には 「真田左衛門佐ノ妻女」と、記されている、男児がいれば、「妻子」となり、男女の可能性がありますが「妻女」です。

ですから、家康により許された時点で、男児の件は 解決済みです。もし 男児が女装していたとしても。

東照神君と なった神 家康の裁定を覆すことなど、老中といえども するはずがないのです。

又、幕府は 諸大名(殿様)の系図の調査は しても、藩士の調査はしません。ましてや 江戸から遠く離れた伊達藩士のことなど どうでもよいことでした。

それよりも 同じ頃に勃発した島原の乱のほうが大問題でした。幕府の命による九州諸藩による討伐も失敗に終り、翌年、老中 松平信綱の鎮圧軍により

やっと終結したのです。

そもそも 大八は 大阪の陣の前に夭折していますので 片倉守信とは別人です。守信は 幸村の子らしいことを何もしていません。

幸村の墓を建てたのは 娘の阿梅であり、京都の寺から母 竹林院の位牌を引き取ったのも 嫁に行った阿梅です。

本当に幸村の子であれば、壮年になった伊達藩士である守信が位牌を引き取ったはずです。

この点からも 明白に守信は 幸村の子ではありません。 

 

真田幸村の子孫で無い事を示す墓石と位牌

真田幸村の娘 阿梅は 片倉重綱に略奪されました保護されたと云うのは間違いです、十数年後に後妻になりました。

更に片倉守信の墓石からも守信が幸村の子でない事が分かります、よって 真田幸村の子孫は いるはずがないです。

守信が亡くなった頃(1670年)は 幸村は 有名になり、真田の名字を隠す必要が とっくに なくなっている時代です。

真田を隠す必要があった時代は 夏の陣(1615年)後の15年から20年です。

当信寺の墓石には  「片倉四郎兵衛守信」と 彫られています。 守信は 片倉一族の分家の四男であると云うことを石が語っているのです。

大八は 真田幸村の二男です。真田二郎なのです。ここからも大八と 守信は 別人である事が分かります。お寺の案内板も間違って記されています。

この事をお寺に確認したところ、寺側は、仙台の真田さんの子孫の説を 取り入れて、結果として その案内板を 昭和55年頃、設置した、とのこと。

しかも、今は 阿梅と守信の墓は 隣どうしに並んでいますが 昭和の中頃までは 守信の墓は 片倉一族の墓の近くにあり、阿梅の墓とは 別の所にあったのです。

又、幸村の妻 竹林院の位牌を京都の寺から引き取った(1650~60年頃)のは 嫁に行った阿梅です。壮年になった守信が引き取らなかったのは 何故か、と云う事です。

時は流れ、既に、幸村アレルギーは 消えており、真田が見直されて久しい。

それは 自分が幸村・竹林院の子ではないからです。これらのことからも 真田幸村の子孫は 居ないことが分ります。

当信寺には 真田幸村夫妻と阿梅の位牌が 安置されています。

尚、幸村の娘 阿梅は 1628(寬永5年)頃には 片倉重綱の後妻になり、その後、次々と 妹たちが有名な大名に嫁いでいます。

大名たちが 幸村人気で 勇将 幸村の娘を欲したのです。既に、秀忠は 亡くなり、将軍は 家光になっており、真田幸村が見直されてきた時代です。

その幸村の墓があったのは 白石の月心院でした、阿梅が父 幸村、母 竹林院の菩提を弔う為に 1648(慶安元)年に建てたお寺です。

守信が幸村の子であれば 当然、守信は 檀家として 、それも筆頭檀家として 親父の菩提を弔ったはずです。

既に 20年も前に幸村は人気者になり、真田の名を隠す必要も無くなっており 堂々と幸村の息子を表明できた頃である。

尚、守信は 約10年も前に立派な伊達藩士となっている、それなのに 檀家にもならず 月心院に無関心だったと云う事は 幸村の息子ではないと言う事です。

息子なら当然、阿梅 及び辰信は 守信の墓を当信寺ではなくて、月心院に建てて、親子で 並んだ墓石にしたはずである。

又、寺は 明治になって 廃寺になり、僅かに 位牌だけが 月心院の本寺 傑山寺に移されました。

月心院の住職が守信の子孫を真田幸村の子孫と言う事で 普段から檀家としての付き合いがあれば 連絡を入れて、

廃寺にするが 「墓や位牌をどうするか」の対応を聞いてるはずです。寺の移転とか、廃寺の時は 必ず 檀家の承認印が必要なのです。

守信の子孫も幸村を先祖と思わず、月心院に関心がなく、住職も片倉一族を 「幸村の子孫」と認識していなかったと云う事です。

これらの事からも 守信の子孫は 真田幸村の子孫でない と云う事です。

即ち、江戸時代の初めの人が自分は 幸村の子孫と云う認識があれば それが代々伝わり、阿梅が建てた月心院が廃寺になる時に寺と連絡を取って

幸村の位牌を引き取っているはずです。引き取っていない、だから本寺 傑山寺に移されたわけです。

江戸初期から中期、後期まで幸村の子孫と思わせるものは 何も無く、僅かに幕末になり、幸村人気を意識しだして、守信の墓に銭紋が付いていたので

明治5年の墓には、「幸村10世 真田源田左衛門滋野幸清」と刻んだと云う事です。これは 11世のした事です。思い切ったことをしたものです。

真田大八が夭逝していると云う真田本家の正史が伝わっていない時代だから幕末の子孫が間違えたという事です。

そして、大正、昭和の時代になり 真田本家の正史、片倉代々記などの書物が出るに及び つじつまを合わせざるを得なくなり

大八死亡の噂を流した、とか、系図の偽装(叔父の子孫)とか、明治か大正生まれの人が記した家系図を江戸時代から伝わる系図と

言い出したと云う事です。その証拠に系図の真田の真の字の上の冠部分を十にしている事です。江戸時代の人は カタカナのヒ、即ち「」を使ったのです。

折りたたんで 場所も取らない和紙の系図1枚も 伝わっていないのに、大身の鑓などが伝わっているのも 不思議なことです。 

そして その系図に ご丁寧に「5人の保護の経緯」を付け加えたのでした。保護など されていないし、阿梅一人が略奪されたのが真実です。

尚、、大八が徳川からすると大罪人の幸村の息子を証明する系図を持っている はずがありません。

そもそも、大八は死んでいるので、大八所持の系図があるはずがないのです。

尚、幸村の子孫が 本物ならば、蔵王町に展示している宝物が毎年 年を追うごとに幸村使用の宝を増やしません。

一度に全部出すものです、そんなにダンプカーに山盛りあるはずがありませんので。おかしなことです

 

家康の捜査で真田幸村の男子がいない事が判明

又、寺という所は 噂で、人の死を過去帳に記しません。そんなことをすれば 気に食わぬ人は 皆、噂さで 死んでしまうことになり、お寺の権威が保てません。

真田氏の正史に「蓮華定院の報告書」として、大八の早世が記されていると云う事は、真田幸村の子孫は いないと云う事であり、守信は 幸村の子ではないと云う事です。

既に、夏の陣の直後に幸村の妻子が家康の前に連れ出されたことで 大八の件は 決着しているのです。

仙台で生きていると云う話も 作り話です。

「寬永の頃 大八が仙台に生きていると云う噂が立ったので 幕府の追求を受けた」と云う話について

噂が本当に立ったのかどうかですが、阿梅は 大八が亡くなっていて、守信が弟でないので 母親の位牌を自分が引き取ったこと。

又、守信は幸村の子で無い事を自覚している。その子 辰信も 幸村の孫でないと自覚している。

幸村の従者も守信は 阿梅の弟で無い事を知っている。

当然、それらの人の孫くらいまでは その事は正確に伝わっている状態の中で「大八が仙台に生きている」と云う噂が立つだろうか。

仙台の子孫の言い伝えでは「伊達忠宗から真田を名乗ることを許された」との事。

小生 藤原は、それを記している古文書が あれば 見たいものです。

尚、幸村の従者(三井奉膳など)は 生き延びていて、夏の陣後の数年間を京都近辺で過ごした。そして、幸村の妻の竹林院とも会ったはず。

そして、従者は、その竹林院から「捕縛されて、家康の前に連れ出され、大八の死亡も確認された」と云う話も聞いたはずです。

ところが 守信は幸村の子でない為に幸村の従者と接触を持たず、結果として、 その子孫である仙台の真田さんに その話が伝わってないから、

何代目が言い出したのか 分りませんが、寬永の頃云々の うわさ話を作り出せた。幸村の子孫なら そんな話を作り出せるわけがありません。

この点からも守信の子孫は 「真田幸村の子孫でない」事が分ります。

そもそも大八は 夭折しているし、幕府は 東北の藩士の取調べなと するはずがありません。幕臣なら、有りえますが。

それなのに、平成26年の宮城県の蔵王町のイベントには 真田幸村使用として「南蛮鎧」が展示されました。

尚、秀頼、幸村が大阪城を出て 九州に下り、天草四郎になったとか、鹿児島に逃れたとか云うような話は 全くの作り話です。

幸村は、家康によって 首実験されています。そしてその首は 討ち取った西尾仁左衛門が福井に持ち帰り、供養のため造った菩提寺「孝顕寺」に埋めたのです。

生き延びた、と云う話は、講談本に おもしろおかしく書かれたことによる伝説であり、それは、源義経が東北を逃れて、海を渡り、

「フビライカーンになって、蒙古として襲来した」と云う話と同じです。全く根拠の無い作り話です。

立川文庫の講談本(フィクション)で、大正のベストセラー 「智謀真田幸村」を読んだ文豪 幸田露伴は「こうデタラメだと、いっそう おもしろい」と述べた。

考えても見てください。

秀頼と同じように 火に包まれた信長が本能寺を出て、どこかに逃れていれば、必ず、秀吉、家康等が集まる大広間に出て来て、命令したはずです。

秀頼と違って 信長の力は 絶大でしたので、生きていれば 身を隠す必要がありませんでした。

でも 出て来なかったと云う事は 焼けてしまった、と云う事です。

明智光秀は 信長の首を求めて 消火にかかったが 鎮火出来ずに 首も 見つけられなかった。

それに比べて 大阪城では、徳川方は 消火などしていないから本能寺よりも火の勢いは 強かった

秀頼も幸村の子 大助等も 焼けてしまった、と云う事です。

 

ニセの真田幸村の子孫の対応が示す 鎧のニセ物

それは ニセ物です。南蛮鎧のように 重くて 身動きに不自由するものは 幸村は 使用していませんし、信長のような殿様が諸将の前に飾る物です。

幸村は 国主にも なっていませんので、そんな物を 持っているはずがないのです。

だいたい、以下の画像にある 幸村使用の鎧を捨てて、現在の南蛮鎧を本物としているのも 説明が付きません。

http://www.dokitan.com/sanada/story/05/index.html

描かれている真田幸歓が着ていた鎧がないのは何故か。

布で出来た采配が伝わっているのに その鎧は 何故捨てたのか。寧ろ 鎧の方が宝です。

又、その鎧がないのに何故 同時期の幸村使用の新たな南蛮鎧があるのか。

その南蛮鎧が400年伝わってきているのなら、イベントの第1回の時からあるはずです。 何故ないのか。

第2回の時は 甲冑業者から 買ったのです。真田幸歓が着ていた鎧もニセ物と知っているから捨てたのです。

仙台の真田さんは 「ニセ物展示」と云う思い切ったことをやったのです。片倉守信 10世 のDNAが 流れていることは確かです。

しかし、真田幸村のDNAは 流れていないことは 上述した通りです。

そもそも 仙台の真田さんの言い伝えは 史実と違うことが 多くあり、その言い伝えは 片倉代々記にも 載っていなければ

仙台藩家臣録や 伊達世臣家譜などの古文書に載っていません。わずかに口伝のみです。

その口伝も 間違いが多いのです。

特に 小生 藤原が 問題視しているのは、ニセ物を 大阪の大丸等で 有料展示していることです。

ニセ物とは知らずに 大阪の市民は お金を払って 入場したと云う事です。

歴史を歪曲するのは 問題だ、と思う人は このページ( http://www.myouji.org/sanadayukimuranoshison.htm ) にリンクしてください。

ご自分のサイトの「真田幸村の子孫」と言う文字から。

以上が 真田幸村の子孫の真実です。当サイトのお問い合わせは 管理人の藤原にメール下さい。

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